破信堕悪御書
この釈迦仏とは、三十二相といわれる仏としての優れた身体的特質を備えた、インド応誕の釈尊であります。釈尊は、仏として人びとから最高の尊敬を受けておりました。それでも、心の曲がった悪人は、金色に輝く仏を、炭と見たり、灰と見たり、敵と見てしまうとの意味だあります。
その釈尊に対して、御本仏・日蓮大聖人は、凡夫の姿で、悪世末法に出現された。したがって、大聖人が数々の大難に遭われたのは、当然と言えましょう。
いわんや、われらは凡愚の身であり、民衆、信徒です。その私どもが、大聖人の仰せ通りに、広宣流布を現実のものとしてきた。軽んじられてきた庶民が、最も尊い聖業を担ってきたのであります。さまざまな難が、北風が、怒涛が、嵐が吹き荒れるのは、これまた当然のことと言わざるを得ません。ゆえに、牧口先生、戸田先生は投獄され、牧口先生は命をも奪われました。私の人生も、相次ぐ迫害の連続でした。御書に照らして、当然、これからも、わが学会には、激しい北風の突風が吹くでありましょう。
しかし、絶対に負けてはならない。絶対に屈してはならない。
「新・人間革命 第26巻」より
これから先も、沢山の難が起こるでしょう。
でも、絶対に臆することなく、師弟不二のお題目根本で、異体同心で、乗り越えていきましょう
(非公開さんより いただきました)
by tomotiyoo | 2015-02-18 07:53 | Comments(30)
どうしたら、相手の「いのち」に届くのか。
それは自他とものお題目でしかないよね。
先生はこう言われている、御書にはこう書いてあると
ただ正論を言うだけでは、相手の頭にも心にも、
ましてや「いのち」にも届かない。
例え今、目の前の人に言っても伝えても、
頭でも心でも納得していない、
または、反発しているっていう状態でも、
「いのち」に届くお題目をあげていれば、
必ずその機はやってくる。
必ず後で思い出してくれるんだよね。
ああそうか、
あの人の言ってたことはこういうことなんだって。
逆に、正論、正論と言って、
正論を理解できない人はバカと見下していれば、
必ず、その言葉の通りに自分に返ってくるよね。
私は、正論を言うだけで、お題目をあげていませんと
言っているようなものだもの。
「 仏道修行で、一番やさしい修行は唱題であり、
一番 難しい修行も題目を唱えることだ」
まずは 自分が変わることかな~
変わると 相手が変わったか 変わらないかなんて
気にならなくなる
そして 他にいい人が出て来て 気が そっちにいく
前に言ったかどうか分からないけど
私が 指導受けたとき 祈っていけば
相手がいなくなるか 変わるか どっちかって 言われた
でも この組織に いなくなっても困るしな~って
思ってて ある日 ゆっくり話したら その人変わってた
どういう結果になるかは 自分で実験と言う事で・・・
えむさん、「正論を理解できない人はバカと見下して」…私、まさしくそういう言葉を発信してる人をネット上で見た事ありますよ(笑)
世界で自分が一番正しいって思いこんでいるとしか思えないけど(゜ロ゜;
二度と関わりたくなかったんすけど、勝手に絡んできた時はどうしようもないもんっすね(x_x)
ネット上のそういう人の事も純粋に祈っていけば、ネット上で絡まれる事が一切なくなりますかね?!
「正論を理解できない人はバカと見下して」
私たちも、そうならないよう、
そういう「いのち」を自分の中から追い出すために、
御本尊経由で祈っていくことが大事かなって思います。
ある意味、反面教師だけれど。
ある婦人部の方が
「あえて、そういう姿を示して私たちに教えてくれている」と。
「あえて」なんだそうです。
そう捉えることが信心っていうのも教わりました。
そういう「いのち」を「あの人」が持っているのではなく、
自分のいのちの中にも同じものをもっているのかな?って、
自分を見つめなおせるいい機会だと思います。
一般的には、
「人のふり見て我が身を正せ」ということになるでしょうか。
なので、そういった相手でも感情的に怒りをぶつけてしまうと、
結局こちらが損をしてしまう。
河合師範がいうところの「正しい怨執」になってしまいます(^^;)
せっかくの福運も消しちゃうよね。
それじゃぁ、ホントにもったいない。
私も失敗したから、ホント学びました(^^;)
学会の境涯革命五原則にも、
感情で対すれば怨嫉となる・題目で包容すれば成長出来る。
人間だもの、好き嫌いはあるし、いろんな感情も当然あるから、
でも、そのまんま相手にぶつける前に、まずお題目。
お題目をあげて、瞬時に包容できるならいいんですが、
なかなかそうならない(笑)だからそうなるまで
あきらめず、お題目をあげ続けていくしかない。
これがあるかないかで、ぜんぜん結果が違う。
一緒にあきらめず、お題目をあげていこうね(^^)
創価ネットから抜粋です。
「善知識に親近するとともに、
悪知識を遠ざけることが大事になります。
また大聖人は、もう一歩進んで、
仏道修行を妨げようとする悪知識をも成仏への機縁としていく
強盛な信心に立つべきことを示されています。
その時は悪知識も善知識ととらえられるのです。
すなわち「種々御振舞御書」に
「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、
今の世間を見るに人をよくなすものは
かたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり」
と説かれ、「富木殿御返事」には
「諸の悪人は又善知識なり」と述べられています。」
今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも
強敵が人をば・よくなしけるなり」
「見ず知らずの会員さんの事を祈る」ことができるのは
「わがブロックの人の事を祈る」ことのずっと先の延長上でしかないです。
言われてから祈るのは「祈祷師」と同じ。
みかん。さんがネットで学会員に絡んでいる間は、しっかり見てます。
変わったと感じられるのは「気にならなくなった」時ということですね。
今、ブログのランキングアップや褒めコトバを待っている「ちよ」さんだからこそ「汚された」とか、暗にオトモダチを個人の親衛隊たらしめ、いきり立たせるワードを書けてしまう「ちよ」さん。
現場でなら人を叩いて(笑い)ゴメンネと可愛く謝っておしまいでしょうけれど、相手がHNでどこのだれだか解らない時には実力行使にでれないが故のストレス発散されていますね。
どんなに自分を褒めたって、相手の不幸の上に立っているなら
「欺瞞」だとおもいますよ。
「見ず知らずの会員さんの事を祈る」
そうでしょうか。
現場でも、実際お会いしたことのない方のことを
祈ることもあります。
お名前の書いた用紙をいただいて、
ご病気のご祈念とか、入会のときのお題目とか。
ごく自然なことだと思っていたのですが、
ちがうのですか?
また、逆に祈っていただいていたと
伝えられたこともあります。
やはり、素直に嬉しかったです。
新聞や大白に書かれています。
先生にとってみれば、私は見ず知らずの会員なのでは
ないでしょうか。
また実際、先生とお会いしたことがなくても、
健康など祈っているお話は現場でも聞かれませんか?
麻畝の性って あるじゃない?
私も かなりのへそ曲がり
だけど こうやって 学会の庭に身を置いて
ごく普通に みんなと関われるのよ
これって 麻畝の性だよね~
こうなれたらいいね!
「どんなに自分を褒めたって、相手の不幸の上に立っているなら「欺瞞」だとおもいますよ。」
私 自分を褒められる様になったのかな~?
だとしたら やっと 胸中の仏界を信じられるようになったのかも~
あべちゃんも 仏様
み~んな 仏様だもんね
えむさん、「あえて」&「自分の中にもあるいのち」、確かにそうっすね!
反面教師として、ネットでも色々な姿を見せてくれているんすよね~きっと。
創価ネットからの引用、ありがとうございます☆
善知識との関わりはどこでも大事っすよね(o^^o)
御本尊経由が確実!て事で(^o^)
んなに自分を褒めたって、相手の不幸の上に立っているなら
「欺瞞」だとおもいますよ。それはあなたの事だよん。自分がそうだから、他人もそう思うのはアベヒさんの特徴だよん。
福島の壮年さんが自己相違性ていってるよん。活動ふり演技のアベヒさん、あなたのことは、お見通しだよん。
活動ふり演技やめなよアベヒさん。
了解です
現場で「唱題」の渦をおこすのは大賛成です。
なぜなら、先生の指導にありますので。
※幸福を築いていくには、学会の組織のなかで、同志と共に聞き抜いていくことです。学会は、現代の和合僧団です。
(略)
信心の成長は、善知識となる先輩、同志とスクラムを組み
互いに触発し合っていく団結の輪の中にあることを、忘れないでください。
『 小説新人間革命 法旗 20 2012/12/25付 聖教新聞 』
さてここで問題になるのは
個人のブログに引き寄せられただけの学会員の集団が
「学会の組織のなかで」にあたるのかどうかですね。
>>「学会の組織のなかで」にあたるのかどうかですね。
組織に該当するとか該当しないとか
やたら組織体制にしようと こだわっているけれど
「組織の為」の信心じゃないでしょ?
なんだか 社会主義的な杓子定規で物事を語ってないか?
あべひさん
さびしくて、寂しくて、さようならと言われても来るのん?情けないストーカーアベヒさん。11回目だよん。
「一度きめつけた価値観」という
固定観念から脱することが不愉快だから
あの人たちも 現実逃避をすることで
精神的な不安を軽減させようと試みて
その集大成が大河さんの村内で愚痴をこぼしあっている
共依存にかかった連中だったりもするわけで
まさに いい大人がやることではありません。(棒読み)
それにしても この人たち
自分の事を棚にあげるのが好きなんですね
他人の命ばかり批判しないで
自分等の命を反省したらいかがでしょうか?
本当「自分はそうじゃない」と葛藤するのは
自分も知らない「心の穴」があることを
「怖れ」認められない状態だといえます。
それが「便利」/「不便」でしかないものを
「善い」「悪い」で判断することしか考えられないから、誰かを「悪」にしたてあげて
自分の本性を隠そうとするのでしょう。(棒読み)
コメントありがとうよん。
まさに いい大人がやることではありません。(棒読み)全くそうだよん。
さようならとみんなから言われても食らいついてくるよん。
理解できんよん。止めな アベヒさん、これで12回目だよん。
SMさん、これって驚異的前代未聞空前絶後のストーカーアベヒさんだねん。
ドカーンはいつになったらアベヒさんのストーカー止められるんだろん!
一番 難しい修行も題目を唱えることだ」
ああ、そうか。
確かにそうですね
口先で南無妙法蓮華経という言葉を声に出すこと(唱題)は一番簡単に出来ますね
しかし、妙法蓮華経に南無します(帰命します。命を捧げます)という一念の祈り(お題目)が出来ているのか
というと一番難しいですよね
しかし、それにしても、
「私には灰や炭に見えます。」というのはこういうことです。と、わざわざ具体例を出してくれるなんて
なんて親切な善知識だと思いました
>先生の指導
ぱっと思い出しましたが
みんなやってるのでついやってしまいますけど。
「先生はこう言ってます。」
じゃなくて
「先生がこう言ってました。だから私はこういうことをしました。」
とか言うようにしていかないといけないんですよね確か。
自分も似たような感じで、御書の知識自慢みたいな話しをして、幹部の方に指導されること多かったですし、いや今でも多いかな(笑)
特に青年部は「わかる」じゃないよ。「変わる」だよ。と厳しいですもんね。
いやはや厳しい道ですね。
幹部さんが言ったことと 同じ感じを 私も受けます