批判は 覚悟しています

「釈迦は、自分のことを殺しにきた人にこう言ったそうです。

「あなたが私を殺したいのであればそうしなさい」
だからといって、素直に殺されることはないでしょう。
あなたは私を殺したいんですね。それがあなたの選択なんですね。あなたの自由ですね。
しかし、私は私の自由があります。
私は殺されたくないので逃げますね(笑)
ってことです。

人を殺すってことを容認してるわけではないです。
人を殺すのはよいとは言えないでしょう。
しかし、人は自由なんですよ。そういう選択をする人間もいるってことです。
その事実は受け入れるしかない。
そこで、自分はどうすればいいのか?
ってことを考える、行動することが大事です。

変えられない他人を受け入れる。
変えられる自分を変える勇気を持つ。」

(猫事さんのブログより http://ameblo.jp/yoshi0mizuno/entry-12124847642.html


以前 ある批判を受け 私は 記事を削除した事がありました

ここをクリック

しかし これは 間違いであると 後で気づきました
何でも 本部に聞けばいいというものではない事を・・・
一時 私は よく 学会本部へ 電話をかけていました
学会本部の 電話対応の方は 全てを知っているわけではないのです
電話に出る人によっても 対応はそれぞれでありました
法律は 法律に詳しい人に聞いた方がいいにきまっています

学会本部の批判になってしまうかもしれませんが 
創価ネット日蓮大聖人御書全集 全文検索には 誤字が多いのです
人間がすることなので それは 仕方のない事と思いますが それを直す事はないようです
だから 何でも 学会本部にお伺いを立てて 自分の行動を決めようとは思いません

「功徳を受ける信心は真面目な信心
恐るべきは、すぐに人を批判したり、ねたんだりする習性
福運を消すだけでなく、心を暗くし、生命を重くする
さらには、広宣流布の団結を破壊し、自分で自分を、不幸の淵へと追い込んでいってしまう」
(『新・人間革命』第26巻よりP332)

「陰で同志を批判し、悪口を言うことは、無自覚ではあっても、謗法となるのだ。
十四種の法華経誹謗である十四誹謗のうち、最後の四つは、軽善、憎善
嫉善、恨善、すなわち、信心に励む同志を、軽んじ、憎み、嫉み、恨むことなのである。」新・(新・人間革命 25巻P34)

『「不死鳥か
 依正不二になり
  君と僕」

アンドレーマルロー氏の哲学を凝縮した言葉がある。
「なすべきをなして、コメント(=論評)は人にまかせろ」
まったく、その通りだ。
傍観者の戯言などが、なんだ!
傍観者の無責任な態度が、なんだ!
傍観者の勝手気ままな臆病な言動が、なんだ!
戦いはこれからだ。
必ず、勝つのだ。』

ブログを始めた当時 批判をしてくれる人があったからこそ 私は 
多くの同志(とも)から 守られる事となりました
そして 私は強くなり たくさんの友人ができ 充実感を得る事ができたのです

『「本当に勇気のある人は「卑しい心」をもっていない。
誤解されようが、笑われようが、いじめられようが、「正しい」ことをやった人は、
心が晴ればれとしている。その人が勝利者です。』
(大白2016年2月号P113)

だから すべてに 感謝なのです
私には 地元で 相談できる人がたくさんいるから
墨田には 全国幹部もいらっしゃるから 一つ一つ 報告してます
これからは 私が 批判に晒される人の力になっていきたいと思います

何かあったら いつでも言ってね~


[PR]
Commented by tomotiyoo at 2016-02-06 01:02
非公開さん こんばんは
そうなのかな?
Commented by 太陽の子 at 2016-02-06 02:46 x
よろしくお願いします!
Commented by ハピネス at 2016-02-06 06:25 x
例えば、本来、仏法は、人を自由にするはずなのに、その自由を奪ったら、それはもう仏法ではありませんね。

そう言う人の事を、本来、「迷惑」と言うんです。

人を、迷い惑わせる。
正法から、ズレさせる。

出先なので、仏教哲学大辞典が手元にありませんのでアレなんですけど(笑い)

凄いなぁ〜

私は、まだまだ正邪を見分けることすら難しいです。

とりあえず帰路に着きます。

昨日の有り難いコメントへの返事は、後ほど。
失礼いたしました。
Commented by tomotiyoo at 2016-02-06 06:55
おはよう またね~
Commented by ハピネス at 2016-02-06 07:26 x
めいわく【迷惑】

迷い惑うこと。迷いとは事理に暗いこと。惑とは是非を取り違えること。方便権教の邪法に執着し、経教の勝劣、浅深、正邪を判別できないこと。真実を明らかにできない愚痴の凡夫の迷い。[御書]立正安国論(二〇㌻)
(仏教哲学大辞典 第三版)より

あれー? 私もや〜ん(汗)
Commented by pekoyuuko at 2016-02-06 07:41
ちよさん、おはよー(^-^)/

今日の記事はいつにも増して、素晴らしいね。

私を泥水の中から引っ張りあげてくれてありがとう、ありがとう、ありがとう

ちよさんのブログで、私の病気の事を知って、祈ってくださった皆様、ありがとう、ありがとう、ありがとう

ペコは、必ず悠々自適の人生になるようにけしんぎぃ(死ぬ覚悟の意味の薩摩弁)闘います。

それによって、皆様への御礼とさせていただきます。
ありがとうございますm(__)m
Commented by pekoyuuko at 2016-02-06 07:44
薩摩弁間違えた、ただしくは

『けしんかぎり』です。←打ち間違えが多いペコです。すいませーんm(__)m
Commented by tomotiyoo at 2016-02-06 09:15
太陽の子さん こちらこそよろしくです
Commented by tomotiyoo at 2016-02-06 09:17
ハピちゃん 迷惑の意味 教えてくれてありがとう
人間 大なり小なり 迷惑かけて生きてるんと 違う?
迷惑かけて ごめん
次から 気をつけるわ~
私も そうしていくね
Commented by tomotiyoo at 2016-02-06 09:19
pekoちゃん 綺麗な花を 咲かせてね
けしんかぎり闘ってね
でも 無理は禁物
疲れたら 休む
そうして 一歩づつね
顔晴れ~!
Commented by tomotiyoo at 2016-02-06 17:22
非公開さん こんにちは
そんなに 神経質になる必要は ないと思うよ
伸び伸びと 心を ネットに 載せていけばいいんじゃないかな~
私は 非公開さんの 素晴らしい信心に 惚れてしまいました(笑)
慎重になって 臆病になるより 前に進んだ方がいいよ
ローザ・パークスさん
「変化を起こすには まず最初の一歩を 踏み出すことを恐れてはいけない。
失敗はただ一つ、やってみないこと。」
だよね~
「表向き正論のようで、本質が不信と臆病じゃないか」
私も そう思います
そんな人間に なりたくないもんね
すべて 善知識 反面教師と思っていきます
Commented by tomotiyoo at 2016-02-06 17:23
祈ってくれて ありがとう
Commented by akaoni at 2016-02-06 19:10 x
教学に自信のある方もないかたも、どんどんコメしましょう。間違えたら教学力はつくのです。

教学質問

御義口伝の項目は231項目で、各品の最初の項目の多くは、各品の題名(方便の事)(譬喩の事)となっていますが、寿量品の題名だけ「南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事となっています。なぜここにだけ「南無」がついているのですか?

寿量品自我偈の始まり「自我得仏来」終わり「即成就仏身」の二文字をあわせると「自身」になりますが、何か意味があるのですか?
Commented by pekoyuuko at 2016-02-06 20:29
あかおにさんへ
ひゃー、なんて難しい質問でしょう。笑

教学は、パソコンのようにやればやるほど難しくなりますね(^_^;)
Commented by 永遠の凡夫 at 2016-02-06 22:24 x
この世界は、全部第六天魔王の領土だそうです。それを奪い取るのが法華経の行者で、広宣流布とは仏の魔との壮大な戦争だそうです。

「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ
元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」御書997ページ

第六天の魔王を別名「他化自在天」といいます

「自行化他」が仏の心です
「他化自在」は魔王の心です

学会が悪い
池田大作が悪い
公明党が悪い
組織の、あの幹部が悪い
さらに言えば、職場のあいつが悪い

これらは全部、魔王の心です
知らず知らずに、自分の命を蝕み。地獄に落とします。

「何があっても、全部自分のせい」です
だからこそ「全部自分が変えてやる」ですよ
Commented by tomotiyoo at 2016-02-06 22:42
あらら akaoni さんに コメ入れたつもりが・・・
また明日~!
Commented at 2016-02-06 22:44 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by tomotiyoo at 2016-02-07 07:18
akaoni さん おはようございます
一つ 非公開で答えが入っています
皆さんも 考えるようにと・・・
akaoni さんにだけ 伝えますね
Commented by tomotiyoo at 2016-02-07 09:00
おはようございます

「慎重になって 臆病になるより 前に進んだ方がいいよ
ローザ・パークスさん
「変化を起こすには まず最初の一歩を 踏み出すことを恐れてはいけない。
失敗はただ一つ、やってみないこと。」
だよね〜
「表向き正論のようで、本質が不信と臆病じゃないか」
私も そう思います
そんな人間に なりたくないもんね
すべて 善知識 反面教師と思っていきます 」


これ読んで良かったです!やる気でました

ありがとうございます

がんばりますo(^-^)o 
by 桜
Commented by 赤鬼 at 2016-02-09 04:21 x
妙法蓮華経如来とは久遠五百塵点劫成道の如来。
南無妙法蓮華経如来音は久遠元初の自受用法身如来のkと。
Commented by tomotiyoo at 2016-02-09 06:43
非公開を 公開します
Commented by 永遠の凡夫 at 2016-02-06 22:44 x

教学質問にチャレンジしてみます
他の方のネタバレにならないように非公開にしておきますので、赤鬼さんに伝言しておいてください。よろしくお願いします。

1、妙法蓮華経という経典ではなく
南無妙法蓮華経如来という仏様の、寿量、寿命の長さ。つまり功徳の量や深さを説いた内容だからでしょうか。

2、自で始まり身で終わる。
つまり、自我偈の内容は終始自身のことである。
これは、大聖人自身のことだけではありません。
大聖人の門下である地涌の菩薩の、あなた自身のことでもあるのです。

(先月の、大白の拝読御書の、諸法実相抄が、この内容でしたよね)
Commented by tomotiyoo at 2016-02-09 06:44
赤鬼さん
桜さんのも メールで送ったよね(笑)
Commented by tomotiyoo at 2016-02-09 06:46
あった あった

Commented by tomotiyoo at 2016-02-09 06:46
「自身が法華経に帰依すること
> それが題目の意味ですね」by 桜
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:01 x
先生の御義口伝講義より(1)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 ここに、たんに「寿量品の事」と仰せられずに「南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」と仰せられているのは、最も心に刻むべき最重要のことであり、日蓮大聖人の御真意を深く理解すべきである。
 「南無妙法蓮華経如来寿量品」とは、南無妙法蓮華経即末法の御本仏日蓮大聖人の寿量品ということである。これ、文上の寿量品にあらずして、文底の仏の寿量品、すなわち内証の寿量品であり、その所詮の実体は、三大秘法の南無妙法蓮華経なのである。
 能説の仏も南無妙法蓮華経如来であり、所説の南無妙法蓮華経である。人に即して法、法に即して人、すなわち人法一箇であることは明白である。この「南無妙法蓮華経如来寿量品」の一句に、日蓮大聖人の仏法の骨髄が要約されているといっても過言ではない

寿量品について
 「南無妙法蓮華経如来寿量品」について論ずるにあたり、寿量品の説かれた意義、寿量品の文上と文底、内証の寿量品について明確にしておきたい。
 まず、寿量品の説かれた意義についていえば、寿量品に説かれたことによって、釈迦仏法はすべて完結するのである。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:03 x
先生の御義口伝講義より(2)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 寿量品得意抄にいわく、
 「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と。
 始め華厳経より終わり涅槃経にいたる一代五十年の説法は、寿量品の画竜点睛を欠くならば、すべて「いたづらごと」になってしまうと仰せられているのである。
 これほどまでに寿量品が重要なのはなにゆえであろうか。いま、この理由を、爾前経と法華経、さらに法華経迹門と本門を相対して考えてみたい。
 開目抄上にいわく「此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり」(0197-10)と。
 「此等の経経」とは、法華経が説かれる以前の四十余年の経々、すなわち爾前権教のことである。この爾前経には二つの重大な根本的欠陥がある。その一つは、一念三千を説いていないということであり、もう一つは、久遠実成を説いていないということである。
 「行布を存する」とは、日寛上人の三重秘伝抄にもお示しのごとく、十界に差別があるということである。地獄・餓鬼・畜生、ないし仏界にいたるまで、まったくバラバラに説かれてあり、しかも、地獄が最も下にあり、餓鬼はその上という。いわば段階的な説き方である。したがって、十界が、わが一念の生命にあるというのではなく、まったくそれぞれが別世界のものとして説かれている。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:06 x
先生の御義口伝講義より(3)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 声聞・縁覚・菩薩等になると、きわめて一部の人が悟りきわめた特殊な世界であり、それを得るためには、人並みはずれた特殊な修行をしなくてはならない。
 いわんや、仏界などは凡人に及びもつかぬ、はるかかなたの世界であり、境地であるとされていたのである。
 よく、仏界というと、仏の住む清浄な世界が、はるかかなたの世界にあると考えたり、菩薩界といえば、観音菩薩や文殊菩薩や弥勒菩薩等々の、あの絵で表現されているような別世界があると考えたりする。あるいは、天界といえば、天の一方に、天国のようなところがあって、梵天・帝釈等がそこにいるというように考えたり、地獄界といえば、地の下のほうにあり、鬼が住み、悪いことをした人を責めるといった世界があると考えたりする。
 これらは、ことごとく権大乗以下の経典の説明法であり、十界に差別を設けた、低き生命観より生じたものである。
 さらに、二乗は絶対に成仏できないとしたり、女人は不成仏、悪人もまた不成仏等々、十界にあらゆる差別を設けているのが、爾前権教の物の考え方である。これが「行布を存する」ということであり、このように行布を存する教えは、低き生命観であることは当然、一切の人々を幸福にしきる哲理ではない。あくまでも法華経に誘引するための方便の説であり、もしこれに執するならば、人間性を歪め、不幸の巷を流転する以外にない。
Commented by akaoi at 2016-02-09 08:17 x
先生の御義口伝講義より(4)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 法華経迹門にいたって、これらの前説はことごとくくつがえされた。すでに法華経の序文たる無量義経では「四十余年には末だ真実を顕さず」と説き、方便品では「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」と宣言し、それとともに二乗作仏、女人成仏、悪人成仏を説き、ここに十界互具が明かされたのであった。また、諸法実相と述べ、森羅万象ことごとく、妙法の当体であることを示したのである。かくして、一切の現象は、百界千如、一念三千なることが明瞭となり、かつまた、われわれの一念の生命に、地獄より仏界にいたる生命活動、境地が宛然として具されていることが歴然としたのである。
 ここに生命の真実の姿が浮き彫りにされるとともに、あらゆる人々に成仏の道が開かれ、万人が幸福になる原理が、理論的に確立されたわけである。
 仏法は、なにも人間の表面的な形式を問題にするものではなく、人間生命の奥底の一念を究めたものである。誰人であれ、最も清浄無垢な、最も力強き仏界という生命が秘められていることを、これほどまでに体系づけて説き明かした大哲理は、まさに、人間叡智の最高峰という以外にない。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:19 x
先生の御義口伝講義より(5)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 だが、いまなお法華経迹門の段階では、不完全であった。それは、わが生命の理論的、哲学的考察の域を出なかったからである。いかにわが身が妙法の当体であり、わが生命に仏界が内包されていることを、理論的に納得してみても、現実に、わが身の上に、仏界が顕現され、妙法に輝く生命の当体として、人生を生ききるのでなければ、意味をなさない。不幸にあえぐ民衆を、その本質は妙法の当体なりといかに力説しても、事実、宿命転換させ、幸福への大道を歩まされるのではなくて、何の意味があろうか。
 およそ、仏法は、一切衆生を現実に幸福にせしめていくために説かれたものである。たんなる理論の展開でもなければ、学問のためでもない。したがって、事実の上に人々を成仏せしめていく力強い教えでなければ、何のための仏法であろうか。ここに迹門を理上の教相とも、理の一念三千というのである。
 開目抄にいわく「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににたり」(0197-)と。すなわち迹門の一念三千、二乗作仏は水中の月のごとく有名無実であり、根無し草のごとく本無今有であると仰せられたのである。
 成仏とは、自身の仏界を開き、顕現していくことである。決して、自分自身が変化して特別なものになるのではない。だが、観心本尊抄に「仏界計り現じ難し」(0241-13)とも仰せのごとく、まことに仏界顕現こそ、最も難問題であり、仏法の究極なのである。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:20 x
先生の御義口伝講義より(6)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 しかして、釈尊は、事実の上に仏界を顕現している仏それ自体である。ゆえに、当時の衆生がその身に仏界を現ずるためには、釈尊にその範を求めなくてはならない。
 釈尊自身が、いつ、どこで、いかなる原因により仏になったか、そして釈尊と当時の衆生との関係性は如何。これらの問題が解決されぬ限り、当時の衆生は、成仏できぬはずである。
 ところが、法華経迹門までの段階では、釈尊はインドに応誕し、三十歳の時に、伽耶城近くの菩提樹の下で、始めて成仏したのだと説いている。いわゆる始成正覚である。これは釈尊の本心ではない。ただ衆生を化導するために、インドに出現して始めて成仏したように見せた、いわば垂迹の姿であり、ここに成仏の本地があるのでもなければ、成仏の実体があるわけでもない。したがって、いかにその始成正覚の仏を理想として修行しても、所詮、それは幻のごときものである。仏も夢中の虚仏であり、それにいたる修行も夢中の修行にすぎない。
 この爾前迹門の始成正覚を一言にして打ち破ったのが、寿量品第十六の「我実に成仏してより已来、無量無辺」等の文である。すなわち従来の考え方を180度回転して、自分は五百塵点劫という久遠の昔にすでに仏であったと説いたのであった。これが、いわゆる寿量品における久遠実成である。この開顕を広開近顕遠とも名づけるのである。
 この久遠実成とともに、釈尊が仏になった本因も「我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶末だ尽きず。復上の数に倍せり」と説かれたのである。菩薩道は九界を代表している。そしてその九界の生命は、仏になってからも、否、今日にいたるまで「今猶末だ尽き」ていないとの文である。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:22 x
先生の御義口伝講義より(7)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 すなわち、釈尊自身、無始以来、九界の生命を具備していることを明かしたわけである。釈尊といえば、これまで衆生の境界から脱し、ただ清浄の生命のみ充満した仏であり、もはや九界の生命などありようはずがないと思われていた。ところが、実はそうではなく、自ら無始以来、仏界即九界、九界即仏界の生命の当体であることを、説き明かしたのであった。
 かくして、迹門の十界互具、百界千如、一念三千の哲理をば、本門寿量品において、釈尊自身、自己の厳然たる一個の大生命の上に展開したのである。迹門を理上の法相というのに対し、本門寿量を事の法門というのは、このゆえにほかならない。
 開目抄にいわく、
 「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(0197-15)と。
 さらに、釈尊は、どこで仏になったかという本国土を明かすのである。いわゆる「是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」の文である。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:24 x
先生の御義口伝講義より(8)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 これまで、この娑婆世界は穢土と嫌われ、仏の住する常寂光土は、別世界にあると考えられてきた。ところが、寿量品にきたり、この娑婆世界こそ、仏の常住する、常寂光の世界であることが、あたかも号砲を放つごとく宣言されたのである。しかも、これまで、あらゆる経々に説かれた仏国土は、ことごとく釈尊の化導の国々であることが明かされ、大宇宙それ自体、妙法の世界であることが鮮明となったのである。もしこの娑婆世界が即常寂光土という説法がなければ、どうして国土も妙法の当体であることが明らかとなり得ようか。
 先に迹門において一念三千の哲理が明かされたごとく述べたが、奪っていえば、迹門には国土世間が明かされていないがゆえに、百界千如の域を出ない。
 観心本尊抄にいわく「其の教主を論ずれば始成正覚の仏・本無今有の百界千如を説いて已今当に超過せる随自意」(0248-13)と。したがって迹門の段階では、いまなお有情界の成仏を説いたにすぎず、本門にきて初めて有情・非情ともに妙法の当体であり、成仏できることが説き尽くされたのである。同じく観心本尊抄にいわく「問うて曰く百界千如と一念三千と差別如何、答えて曰く百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る」(0239-08)と。
 また、この娑婆即寂光の原理が明かされることによって、幸福は決してかなたの世界にあるのではない。成仏は別世界にあるものではないことが、いよいよ明瞭となったわけである。
 以上「我実成仏已来無量無辺」等を本果妙の文、「我本行菩薩道」等を本因妙の文といい、「娑婆世界説法教化」等を本国土妙の文という。寿量品にはこの三妙が合わせて説かれているので、これを三妙合論という。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:26 x
先生の御義口伝講義より(9)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 このように、本門寿量品の説法は、迹門に比し、その哲理においても、さらに深く、宇宙の時間・空間の実相を究め、その実証においては、釈尊自身の厳然たる証明があり、あらゆる点で、比較にならぬほどすぐれた法門というべきである。
 もし、この寿量品第十六の説法がなければ、誰人も釈尊が仏になった本時も、本因も、本国土も知らず、ただ自身に仏界が具備しているというだけで、理論の空論に終わるところであった。まさしく、寿量品こそ、釈尊一代五十年の教説に聳ゆる絶頂であり、一切経の完結編であることは、瞭々たるものがあろう。
 だが、本門寿量品が大切なのは、この三妙合論の説法があるからであろうか。むろん、しかりである。しかしながら、これは文上の領域で論じたものであり、一往浅薄な義である。より一重立ち入って論ずるならば、実に、この寿量品の文底こそ事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘沈されているから大切なのである。
 開目抄にいわく「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と。
 日寛上人は、三重秘伝抄に、この文を釈していわく、
 「初めは権実相対・所謂『但法華経』の四字是なり、次は本迹相対・所謂『本門寿量品』の五字是なり、三は種脱相対・所謂『文底秘沈』の四字是なり、是れ即従浅至深して次第に之を判ず。譬えば高きに登るに必ず卑きよりし、遠きに往くに必ず近きよりするが如し」「応に知るべし、但法華経の但の字は是れ一字なりと雖も意は三段に冠むるなり、謂く一念三千の法門は一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但門底秘沈と云云」と。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:27 x
先生の御義口伝講義より(10)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 このように、本門寿量品の説法は、迹門に比し、その哲理においても、さらに深く、宇宙の時間・空間の実相を究め、その実証においては、釈尊自身の厳然たる証明があり、あらゆる点で、比較にならぬほどすぐれた法門というべきである。
 もし、この寿量品第十六の説法がなければ、誰人も釈尊が仏になった本時も、本因も、本国土も知らず、ただ自身に仏界が具備しているというだけで、理論の空論に終わるところであった。まさしく、寿量品こそ、釈尊一代五十年の教説に聳ゆる絶頂であり、一切経の完結編であることは、瞭々たるものがあろう。
 だが、本門寿量品が大切なのは、この三妙合論の説法があるからであろうか。むろん、しかりである。しかしながら、これは文上の領域で論じたものであり、一往浅薄な義である。より一重立ち入って論ずるならば、実に、この寿量品の文底こそ事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘沈されているから大切なのである。
 開目抄にいわく「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と。
 日寛上人は、三重秘伝抄に、この文を釈していわく、
 「初めは権実相対・所謂『但法華経』の四字是なり、次は本迹相対・所謂『本門寿量品』の五字是なり、三は種脱相対・所謂『文底秘沈』の四字是なり、是れ即従浅至深して次第に之を判ず。譬えば高きに登るに必ず卑きよりし、遠きに往くに必ず近きよりするが如し」「応に知るべし、但法華経の但の字は是れ一字なりと雖も意は三段に冠むるなり、謂く一念三千の法門は一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但門底秘沈と云云」と。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:34 x
先生の御義口伝講義より(11)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 また、はじめに引用した寿量品得意抄の文のすぐ次下にもいわく「所詮寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ十方の諸仏の能生の根源こそ寿量品の文底たる南無妙法蓮華経でると仰せなのである。その他「寿量品の肝要」「寿量品の肝心」等と仰せられた御文は枚挙にいとまがない。総じては釈尊の八万法蔵、別しては法華経二十八品、また総じては法華経二十八品、別しては寿量の一品は、すべて、日蓮大聖人の仏法のために説かれたのであり、大聖人の仏法が根底となり、初めて生きてくることをしらねばならない。
 このことをさらに明確にするために、寿量品第十六の文上と文底の関係を鮮明にしておきたい。
 日寛上人は、三重秘伝抄に「寿量品の文底」とは、さらに寿量品第十六のいずれの文底であるかという点に言及されていわく、
 「聞いて能く之を信ぜよ是憶度に非ず、師の曰く『本因初住の文底に久遠名字の妙法・事の一念三千を秘沈し給えり』云云、応に知るべし後々の位に登るは前々の行に由るなり云云」と。
 この文中「久遠名字の妙法・事の一念三千」とは、南無妙法蓮華経であり、即事の一念三千の大御本尊である。
 それでは、その「久遠名字の妙法・事の一念三千」を「本因初住の文底に秘沈」したとはいかなることか。本因とは、本因・本果・本国土の三妙の内の本因である。すなわち「我本行菩薩道」の文がそれにあたる。菩薩道とは、釈迦仏法では四十一位の段階を明かしている。すなわち、十住・十行・十回向・十地の四十位と、それに等覚が加わって四十一の段階となる。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:36 x
先生の御義口伝講義より(12)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 したがって、釈尊が成仏できた本源をたずねていくと、どしても、十住の最初の位である初住位にまでさかのぼらざるを得ない。むろん、初住位以前にも十信という段階を立てる場合もあるが、十住の位はまだ安定せず、いつ退転するかわからない位である。初住にきて初めて不退転の位となり、必然的に妙覚位にまで到達していくのである。したがって、初住位に登ったということは、実質的には成仏したのと同様なのである。
 しからば、不退転の位たる初住位に登り得た本源力は何であったか。これこそ、南無妙法蓮華経であり、釈尊の成仏の根源は、実にこの南無妙法蓮華経を信受したからにほかならない。
 法華経本門文上の範囲内では、仏になった本因を我本行菩薩道の初住の段階まで読みとれる。だが、初住に登り得た本源力、根本力は何かとたずねていけば、もはや文上の範囲では解決しようがない。日蓮大聖人は、其の初住に登り得たことの奥底に、南無妙法蓮華経が秘沈されていると教えられたのである。
 「後々の位」すなわち、初住の位、さらに二住・三住・十住・十行・十回向・十地・等覚、そして五百塵点劫の成道と進んでいくことができたのは「前々の行」すなわち、南無妙法蓮華経を信受したからである。
 釈尊が、究極においては、南無妙法蓮華経を信受して成仏し得たことは、次の御文にも明らかである。
 三大秘法抄にいわく「夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(1021-03)と。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:38 x
先生の御義口伝講義より(12)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 「実相証得」とは五百塵点劫の成道である「当初」とは元初のことであり「実相証得の当初」とは久遠元初のことである。諸御書に「五百塵点劫の当初」とあるのと、まったく同義と」拝すべきである。すなわち、この三大秘法抄の御文に明確に、釈尊自身、久遠元初において、三大秘法を修行したことが説かれているわけである。
 釈尊は、自分が南無妙法蓮華経によって仏になったことは内に秘し、外には菩薩道を行じて仏になったと説いたのである。しかも衆生誘引のためにわが身を飾り、衆生をして渇仰の心を起こさしめたのである。
 だが釈尊は、当時の衆生をして、最終的には、南無妙法蓮華経を悟らしめんがために、八万法蔵を説き、なかんづく法華経を説き、なかんずく寿量品を説いたのであった。しかし、このことは経文の上にあらわれていない。文底の眼が開けて、初めて覚知し得るのである。
 したがって、衆生もまた、寿量品にいたり、たんに寿量品の文上の域にとどまらず、そこに秘沈されている南無妙法蓮華経を信受して成仏することができたのである。
 観心本尊抄にいわく「久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ」(0249-15)と。
 法華取要抄にいわく「今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり」(0334-12)と。
 法華取る要抄の「法華経本門の略開近顕遠」とは、文上の湧出品の略開近顕遠、寿量品の広開近顕遠つうじて、日蓮大聖人の広開近顕遠に対し略開近顕遠と名づけるのである。したがって、観心本尊抄の文と法華取要抄の文は同義と拝すべきである。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:39 x
先生の御義口伝講義より(13)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 ここで、注目すべきは、当時の衆生が、寿量品の説法を聞いて、等覚のみならず妙覚をも証得しているとの仰せである。
 ところで、法華経の経文の上では、また天台大師の諸文においては、隣極といって登極とはいっていない。すなわち、在世の衆生は、寿量品を聞いて等覚位にまでのぼったのであり、等覚位の人は、経文の上ではまったくいないのである。だが、観心本尊抄にも法華取要抄にも厳然と妙覚位に登ったことが述べられている。いったいこれはいかなるわけか。ここに、重要な法門が秘められているのである。
 在世の衆生は、寿量品にいたり、その説法を聞いて、等覚位にいたり、さらに寿量品に説かれた久遠実成が本地ではなく、その本因初住の文底に南無妙法蓮華経が秘沈されていることを知り、それを信受して、妙覚位に登ることができたのである。
 法華取要抄文段にいわく「文に云く『霊山八年の間諸菩薩皆妙覚の位に登る』とは、もし文上の意に拠らば迹門はなお等覚の益なし況んや妙覚の益有らんや、本門また妙覚の益なし、ただ捕処に限る故なり、何ぞ今諸菩薩皆妙覚の位に登ると云んや。故に知んぬ、今本化付属の内証の寿量品の意をもって還って在世得益の相を見るに、諸菩薩等皆久遠の信心妙覚の位に登る。故に皆妙覚に登ると云う」と。
 すなわち、文底の眼を開いて、在世得脱の相をみれば、妙覚に登ったということがわかるのであるとの仰せである。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:41 x
先生の御義口伝講義より(14)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 また当流行事抄にいわく「若し体外の意は常の所談の如し在世の衆生・寿量品を聞き但二往・乃至・等覚に至る。而も妙覚に至る人は都て経文に之れ無きなり、然るに体内の意は霊山一会の無量の菩薩・体内の寿量を聴聞して但・文上脱迹を信ずるのみに非ず復・文底秘沈の種本を了して久遠元初の下種の位に立ち還りて本地難思の境智の妙法を信ずるが故に皆悉く名字妙覚の極位に至るなり、是れ則ち体内得脱の相なり、故に荊渓云く『故に長寿を聞いて復・宗旨を了す』云云。又云く『若し但・事中の遠寿を信ぜば何ぞ能く此の諸の菩薩等をして増道損生して極位に至らしめん、故に本地難思の境智を信解す』等云云、吾が祖・祈祷抄に『諸の菩薩・皆妙覚の位に上りて釈迦如来と悟り等し』《1349-12》と判じたもう是なり、当流の口伝に云く『等覚一転・名字妙覚』云云」と。
 文中「等覚一転・名字妙覚」とは、寿量品の説法を聞いて等覚位なまで登った衆生が、その奥底に秘沈されたる妙法を信受して一転して妙覚位にいたったことをいうのである。すなわち在世の衆生といえども、成仏し得た根源は南無妙法蓮華経にあったことは明らかである。
 所詮、南無妙法蓮華経こそ成仏の根本であり、いかなる時代、いかなる衆生であろうとも、妙法を離れて成仏はあり得ぬことを確信すべきである。どれほど偉大な大智慧者であろうとも、いかなる博学の人であろうとも、八万法蔵を心に浮かべるごとき仏法に通達した人といえども、妙法に帰着しなければ、迷路を進む以外にない。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:43 x
先生の御義口伝講義より(15)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 当流行事抄にいわく「且く身子の如き鹿宛の断惑は只是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ず・是れ則ち種子を知らざる故なり、然るに法華に来至して大通の種子を覚知す此れ即ち跨節の断惑なり、然りと雖も若し本門に望むれば猶是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ず・末だ久遠下種を了せざるの故なり。而る後本門に至って久遠の下種を顕わす此れ即ち跨節の断惑なり、然りと雖も若し文底に望むれば猶是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ざるなり、若し文底の眼を開いて還って彼の得道を見れば実に久遠下種の位に還って名字妙覚の極位に至る・此れ即ち真実の跨節の断惑なり、故に経に云く「以信得入」等云云、以信・豈名字に非ずや、得入は即ち妙覚なり、又云く『我等当信受仏語』云云、宗祖釈して云く『此の無作三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり』(0753-03)云云、信は即慧の因・名字即なり無作三身・豈妙覚に非ずや、身子既に爾り一切皆然らん」と。
 大智舎利佛すら、なお南無妙法蓮華経を信受して成仏したのである。いわんや他の人々においてをや、されば、低き思想、哲学に固執して、一分の悟りに満足し、したり顔をしている輩は、愚かとも哀れという以外にない。
 以上のごとく、釈尊は決局、一切衆生をして南無妙法蓮華経を信受せしめんがために、一切法を説いたのであった。また、その後、天台。伝教等が中国・日本に出現して、法華経の極理を説いたが、これまた、妙法を内に懐き、妙法を眼目として法を説いたのであった。ゆえに、天台は、毎日一万遍の題目を唱えたといわれ、伝教もまた、臨終に一心三観、あるいは臨終の一念三千として、南無妙法蓮華経と唱うべきことを相伝している。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:45 x
先生の御義口伝講義より(16)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 修禅寺決二十二にいわく「天台大師・毎日行法日記に云く読誦し奉る一切経の総要毎日一万遍」と。玄師伝にいわく「一切経の総要とは南無妙法蓮華経の五時なり」と。これ天台大師が南無妙法蓮華経と唱えた明証である。また、道遂より伝教の相伝にいわく「臨終一心三観とは此の行の儀式通途の観相に似ず人終焉に臨み断末魔の苦しみ速やかに来たり転身体に迫る時、心神昏味是事非事を弁ぜず、若し臨終の時に於いて出離の要行を修せずんば平安の修学何の詮要あらん。故に此の位に於いて法具の一心三観を修すべし、法具の一心三観とは即ち妙法蓮華是れなり、故に臨終の時南無妙法蓮華経と唱うべきなり」と。またいわく「一念三千に三重あり、一には常用の一念三千・二には別時の一念三千・三には臨終の一念三千・乃至臨終の一念三千の観とは、妙法蓮華経是れなり、妙即一念・法即三千・是の故に一念三千と名異義同なり。臨終の時専心に応に南無妙法蓮華経と唱うべし」と。伝教においても、臨終という。仏法で最も大事な瞬間に南無妙法蓮華経と唱えることが相伝されていることが明らかである。
 だが、これらの賢聖は、迹門の領域であり、南無妙法蓮華経を内には知りつつも、外に向かってはとかなかったのである。また、時末だ来たらず、機も歴劫修行や色相荘厳を好む衆生の機であり、それに応じた法を説き、最後には南無妙法蓮華経を悟らしめんとしたのである。
 さらに深く考えれば、釈尊の八万法蔵も、天台・伝教の論釈も、ことごとく、末法のためであり、末法の大白法の証明のために説かれたのである。
 あたかも衆流の大海に向かって進むがごとく、はるか末法の御本仏と大白法を望んで、その序文として、自らの使命のままに、説法したのである。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:54 x
先生の御義口伝講義より(17)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 法華取要抄にいわく「問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや、答えて曰く方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り上より下に向て次第に之を読めば第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫なり、安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之を読めば滅後の衆生を以て本と為す在世の衆生は傍なり滅後を以て之を論ずれば正法一千年像法一千年は傍なり、末法を以て正と為す末法の中には 日蓮を以て正と為すなり」(0333-16)と。
 これ、法華経の迹門とて、一往は在世のためであるが、再往は末法御出現の日蓮大聖人の証明のために説かれたことは明らかでる。いわんや、文底に南無妙法蓮華経を秘沈した本門寿量品が滅後末法のために説かれたのは当然のことである。
 湧出品第十五にいわく「我等は復、仏の随宣の所説、仏の所出の言、末だ曾て虚妄ならず、仏の所知は、皆悉く通達し給えりと信ずと雖も、然も諸の新発意の菩薩、仏の滅後に於いて、若し是の語をきかば、或は信受せずして、法を破する罪業の因縁を起さん。唯然なり世尊、願わくは為に解脱して、我等が疑いを除きたまえ、及び未来世の諸の善男子、此の事を聞き已りなば、亦疑いを生ぜじ」と。またいわく「我等は仏に従って聞きたてまつれば、此の事に於いて疑無し、願わくは仏未来の為に演説して開解せしめたまえ」と。
 これは、湧出品第十五において「我久遠より来是れ等の宗を教化せり」と略開近顕遠を述べたことに対し、諸菩薩、大衆が動執生疑し、弥勒が代表して質問しているところである。これに対し寿量品第十六の説法があるわけであるが、この質問で明らかなごとく、滅後のために寿量品第十六の説法を請うたのである。すなわち、寿量品第十六の説法は、滅後のためにあったのであり、滅後のなかにも末法のためにあったことを知るべきである。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:56 x
先生の御義口伝講義より(18)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 法華取要抄にいわく「二には涌出品の動執生疑より一半並びに寿量品・分別功徳品の半品已上一品二半を広開近顕遠と名く一向に滅後の為なり」(0334-05)「 問うて曰く誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや、答えて曰く寿量品の一品二半は始より終に至るまで正く滅後衆生の為なり 滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり」(0334-15)と。
 以上、本門寿量品も、末法の日蓮大聖人の仏法の証明のために説かれたことは、まったく明白である。
 また像法出現の天台も伝教も、末法の御本仏と大白法を恋慕してやまなかった。天台は「後の五百歳遠く妙道に沾おわん」と述べ、伝教もまた「正像稍過ぎ已って末法太いだ近きに有り」と述べ、末法を欣求している。かくして、あらゆる経々が説かれ、あらゆる論釈が述べられたあと、末法に入り太陽の出現のごとく御本仏日蓮大聖人の御出現があり、末法万年尽未来際まで照らしゆく大白法が建立されたのである。もはや時来たり、機は熟したのである。釈尊のごとく、妙法を内にいだき、外には他の法を説く必要はない。ただちに、文底秘沈の大法たる南無妙法蓮華経を一切衆生に説かれたのである。
 これまで、寿量品第十六の位置を、権実相対・本迹相対・種脱相対という相対の上でのべてきた。
 さらにここで寿量品それ自体の内容を一段と掘り下げていきたい。
 寿量品の最も重要な意義は、発迹顕本にあることは、これまで述べてきたとおりである。この顕本に二義がある。一には文上顕本、二には文底顕本である。文上顕本とは、五百塵点劫の顕本であり、文底顕本とは久遠元初の顕本である。しかして、寿量品第十六の文々句々を五百塵点劫を顕本として理解していくのを文上の寿量品といい、久遠元初の顕本として理解していくのを文底の寿量品、または内証の寿量品というのである。
Commented by akaoni at 2016-02-09 08:58 x
先生の御義口伝講義より(19)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 たとえば、我実成仏の文についていえば、五百塵点劫の成道を我実成仏と説くというならば、これは文上顕本であり、文上の寿量品、内証の寿量品の読み方である。恩師戸田前会長が、寿量品第十六の講義にあたって、文上、文底の同様の読み方を示されたのは、実にこのためにほかならない。
 さらに文上顕本に二意がある。一には体外、二には体内である。
 これについては当流行事抄に次のごとく仰せである。
 「問う体内体外・其の相如何、答う是れ則ち顕と未顕と知と不知と天地遥かに異なり、謂く文底末だ顕われざるを名づけて体外と為す猶・不識天月但観地月の如し、文底已に顕わるれば即ち体内と名づく、地月は即ち是れ天月の影と識るが如し、且く我実成仏の文の如き若し本地第一・本果自行の成道を我実成仏と説くと言わば即ち是れ体外の寿量品なり、若し迹中最初の本果化他の成道を我実成仏と説くと言わば即ち是れ体内の寿量品なり、内外殊なりと雖も、倶に脱迹と名づく・是れ文底の種本に対する故なり、応に知るべし迹門既に内外有り今の脱迹・豈爾らざらんや、若し体外の寿量品は天台常途の釈の如し、若し体内の寿量品は血脈抄に本果を迹と名づくが如し」
 すなわち、五百塵点劫の成道が一切の根本であり、本地であり、これより究極のものはなにもないとして、それを明かしたのが寿量品でるとするのが体外の寿量品である。五百塵点劫が本地であるとはいっても、それは迹中化他の範囲内のことであり、真の本地は久遠元初であると知って、この寿量品は、この迹中最初の本果化他の成道を明かした品であるとするのが体内の寿量品である。この体外・体内の寿量品は天地の隔たりがあることは事実だ。しかし、共に、この寿量品は、五百塵点劫の成道を明かしたものであるとする点では共通している。
Commented by akaoni at 2016-02-09 09:00 x
先生の御義口伝講義より(20)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 日蓮大聖人が、御義口伝に寿量品第十六の説法をされるのは、なにもこれらの文上の寿量品の説明ではなくして、文底の寿量品、内証の寿量品をお説きくださらんがためである。なぜなら、文上の寿量品は在世の衆生の得脱のための法門であり、末法の要法ではない。文底の寿量品、内証の寿量こそが、滅後末法のための寿量品であるからである。
 したがって諸御書に、本門に二つの意があり、一には在世のため、二には末法のためと仰せられるのは、在世のためとは文上であり、滅後のためには文底であることを知るべきである。
 われわれが寿量品第十六を読む正意もまた、なにも、釈尊五百塵点劫の成道をよむのではない。むしろ、それは迹門の法門であり、末法には用をなさないと破して読むことはあっても、絶対に末法の法門として用いて読むことはない。まさしく、日蓮大聖人の大仏法を説明する言々句々として、また大御本尊を讃嘆する言葉として、ことごとく日蓮大聖人の一仏・南無妙法蓮華経の一法しかないのである。
 たとえば、我実成仏の文を文底の寿量品の立場から読めばどうなるのか。
 当流行事抄にいわく「文底下種の寿量品に我実成仏と云うは我は即ち日蓮・成仏は即ち是れ自受用身なり、謂く是れ自受用身なり、謂く能成は是れ智、所成は是れ境なり境智妙合・豈・自受用身の成道に非ずや、故に文意に謂く『日蓮実に自受用身の成道を唱えてより已来無量無辺・百千万億劫』云云」と。
 すなわち、日蓮大聖人が、久遠元初に自受用身を証得して無量無辺と読み、日蓮大聖人が、久遠元初以来、無始無終の仏であることをあらわすのせある。
Commented by akaoni at 2016-02-09 09:01 x
先生の御義口伝講義より(21)
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 さらに当流行事抄に、百六箇抄の「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」(0863-下種の法華経教主の本迹)の文を我実成仏の経文を例に引いていわく、
 「能詮の辺は唯是れ四字」なり、所詮の辺は即妙法なり、謂く能成即智・豈・本地難思境地の妙法に非ずや、故に知んぬ能詮を以て能詮に名づく・故に内証を寿量品と名づけ、所詮の辺・妙法五字是を本因妙と名づくるなり、今所詮を以て能詮に名づく、故に内証の寿量品とは本因妙の事なりと云うなり」と。能詮・所詮の詮とは、事理を能く説き明かす義である。内証の寿量品が能詮で、妙法が所詮とは、内証の寿量品の説明する実体は妙法なりということである。
 すなわち、寿量品第十六の二千余字のごとく南無妙法蓮華経の説明であることは、瞭々として明らかではないか。
 したがって、内証の寿量品により、如来寿量品第十六の「如来」を解釈するならば、如来とは、久遠本果の三身、すなわち色相荘厳の仏ではない。本地無作の三身、すなわち久遠元初の自受用身を如来というのである。
 しかして、久遠は今にあり、今はすなわち久遠である。久遠元初の自受用身とは、まったくこれ末法の御本仏日蓮大聖人であらせられる。ゆえに、末法今時、内証の寿量品第十六の如来とは、日蓮大聖人の御事なのである。御義口伝に南無妙法蓮華経如来寿量品第十六と仰せあるのは、このことにほかならない。
 先に述べたごとく、文上の寿量品は、釈尊が、いつ、どこで、どのようにして仏になることができたかを明かし、それによって釈尊自身の生命の上に、常住の生命を説き明かしたものであった。いうなれば、釈尊という仏身に約しての説法であった。釈尊の仏法を本果妙の仏法というのはそのためである。
Commented by akaoni at 2016-02-09 09:03 x
先生の御義口伝講義より(22)結
南無妙法蓮華経如来寿量品第16の事
 しかしながら、五百塵点劫という時を限定し、その時以前には仏ではなく、菩薩道を修行したと説いている。しかもその仏も色相荘厳の理想仏の姿であった。これすなわち、五百塵点劫の仏は、作られた仏であり、垂迹の仏であることを示すものせあり、無始無終の仏とはいえないのである。したがって、そこに、成仏の本源があるのでもなければ、成仏の実体があるものでもない。
 真実の無始無終の仏は、文底に説き明かされるのである。久遠元初とは、五百塵点劫という限定された時ではない。時間に約していえば無始無終であり、空間に約していえば、大宇宙それ自体であり、その実体は、一切法の根源であり、かつあらゆるものを変化させ、流転せしめていく本源力たる南無妙法蓮華経なのである。
 ゆえに御義口伝には「久遠とははたらかさず.つくろわず.もとの儘」(0759-第廿三 久遠の事)と説き、結論して「久遠とは南無妙法蓮華経なり」と仰せられたのである。
 したがって、その仏の姿も、三十二相八十種好をそなえた、色相荘厳の仏ではない。ただ凡夫の当体、本有の姿で、そのまま究竟の真仏なのである。
 日蓮大聖人は、末法に、久遠元初自受用身の再誕として御出現になり、凡夫の当体、本有のままで、一切衆生のなかに飛び込まれ、久遠元初の妙法、万法の根源、大宇宙の一切の変化の本源力たる南無妙法蓮華経を一幅の大御本尊として顕わされ、一切衆生に与えられたものである。これこそ、末法の要法、一切衆生の皆成仏道の法であると強く確信すべきである。
Commented by 赤鬼のパソ at 2016-02-09 09:06 x
ああ疲れた。
パソ使いの荒い赤鬼の奴だ。
Commented at 2016-02-19 18:29 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by tomotiyoo at 2016-02-19 19:49
非公開さん 
私のところには 無さそう 。:゜(;´∩`;)゜:。
by tomotiyoo | 2016-02-06 00:00 | Comments(50)

ちよが、本音で語るブログです


by ちよ