2013年 12月 05日 ( 1 )

以前テレビでやっていた番組である。
もう一度見て、新・人間革命も読んだ。
2011年4月 上野動物園のパンダ シンシン リーリーから始まる。
初めて日本にやってきたパンダは、カンカン ランラン
公開初日は5万6千人が訪れたという。
中国から、日中国交正常化の証として、贈られたものだった。
日清戦争、満州事変、日中戦争を経て、両国の国交を回復させた立役者が、大正時代、日本に留学していた、周恩来だった。
1917年9月 19歳で日本に留学。しかし、受験に失敗。
「受験に失敗した恥は、永遠に忘れない」と、帰国。
1921年 中国共産党に入党
自分の、服や食べ物を節約して、その分を、庶民にまわそうとする。
少欲知足そのものの姿だ。

1968年、9月8日。
第11回 学生部総会が、我が墨田の、日大講堂で盛大に開催された。
私の大好きな、「嗚呼黎明は近づけり」が、大合唱されたという。
そして先生は、日中問題にふれ
「第一に、中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること。
第二に、国連における正当な地位を、回復すること。
第三に、経済的・文化的な交流を推進すること。」
であった。(新・人間革命13巻 金の橋より抜粋)

一方、周恩来は、日本との交流は、ピンポン外交といって、卓球協会会長で、教育者の後藤鉀二(こうじ)師との交流を図る。
運動選手たちの交流で、友好を深めることが、国交正常化の橋渡しになる、大事なルートだと考える。
1960年 日本社会党委員長 浅沼稲次郎 刺殺事件を受け、中国よりは、右翼により危険を伴う。
それでも、1971年、後藤氏と、周恩来との会談が実現。
その時、周恩来が語った事は
「水を飲む時、井戸を掘った人を忘れない」である。
そして、1972年 日中共同声明調印式が行われた。
酔って立てなくなった、田中総理を、周総理が支えて、退場するという場面もある。

1974年 周恩来は、膀胱がんで入院。
すでに末期だった。
その年の12月5日
周恩来が病をおしてまで会いたかった人物が、創価学会会長 池田大作である。
当初5分程度とみられていた会談は、30分にも及んだ。
会見の途中、医者からの、お休みになってくださいとのメモを周恩来に渡すが、サイドテーブルにおいて、ずっと話を続けていた。
「もう一度、日本の桜が見たい」との周の言葉に
1975年11月 創価大学で行われた植樹に「周桜」と命名。
1976年1月8日 77歳でこの世を去る。

今、周恩来に言いたい言葉はとの問いかけに、涙をこぼし
「会いたい・・・・・
全国民も、同じ気持ちだろう」と、元秘書は語る。

毎年、周桜は、満開の花を咲かせる。

「土地は南北を問わず、人は肌の色で分けず、世界の人びとはみな兄弟。
その時になれば、世界は大きく変わる。
ただ、21世紀にならないと、目にする事はできない。私は、見られない。
しかし、若い人たちは、目にする希望がある。」周恩来

周総理を偲びつつ合掌。

 
[PR]
by tomotiyoo | 2013-12-05 00:00 | Comments(6)

ちよが、本音で語るブログです


by ちよ