2013年 12月 21日 ( 2 )

ちよはいじめっ子?

大人になって、親戚の集まりや、同窓会では、必ず、ちよにいじめられたーって話になって、ずいぶん謝って回りました。
かと思うと、玉子をもらったという同級生が、結構いるんです。
うちの隣の、駄菓子屋さん。もんじゃもやってました。
今では、全国的にも知られているもんじゃですが、私たちの子供のころは、下町の、土曜日のお昼ご飯という感じでした。
土曜日は、給食がないので、確か10円だっかかなー?
中身は、キャベツと、揚げ玉と、さくらえび。そんなもんでしたよ。
別売りで、玉子と、魚肉ソーセージというんでしょうか?
ハガシで、切って入れてました。
玉子は、持ち込み自由。
でも、家から持ってくるには、割れてしまう可能性がありますよね。
そんなわけで、いつも、友達に、玉子を分けてあげました。
貧しかったわりには、大雑把でした。

近所には、変な大人もいました。
一人はたこ親父と呼ばれてて、神出鬼没、どこの誰だか未だに分からないのですが、何と、私の唇奪われてしまいました。
いつどこでだかはよく分からないのですが、おぞましい思い出です。
今は、笑っていえますよ。( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
まあ、いろいろなことがありました。
お風呂屋の帰り道に、タオルごとひったくられたり、洗濯物を盗まれたり。
それでも、まだまだ平和でしたね。

優しい父と、うって変わって厳しい母。
手をつないで歩いた記憶がありません。
冬は、黒いコートをただひたすら追いかけ、気がつくと男の人と入れ替わっていて、男の人が何かを感じて振り返った時の、恐怖感は、今でも覚えています。
あとから母が気がついて、探してくれたからいいようなものの、迷子の恐怖と言うものは、子供にとって、とてつもなく恐ろしい記憶です。
終点の駅だと、うっかり寝てしまおうものなら、容赦なく置いて行かれます。
気がつくと、母はもう、改札を出るところです。
今そんなことを話題に出すと、母は、覚えていないと言うばかり。
その頃の母の心に、何があったのかは、今でも分かりません。
当時、トロリーバスというのが走っていて、それに乗って、母の部員さんの家に、個人指導について行きました。
どうやら、学会活動の時は、置いて行かれないですんでいたようです。
子供連れだと、相手さんが気の毒になって、家に入れてくれるという事もあったようです。
大人には、かわいがられていたようで、班長さんという人のひざに乗って、頬ずりをされた記憶があります。(ひげが痛いのよ)
小さいころは、よくおねしょをする子で、母に裸にされて、ガタガタ震えてたと、姉は言います。
姉自体も、母の事は怖かったようで、父が本当の父で、母が、継母ではないかと思っていたそうです。
顔にお線香、鴨居には鯨尺(竹のものさし)
母の、姉からの、秘伝のようです(笑)

怖い母でしたが、優しい時もありました。
それは、お題目をあげている時です。
あまり甘えない私も、その時だけは、ひざの上に乗ってもいいと、思っていました。
ある日、上級生から、いじめられて、お金を持ってくるように言われました。
その時も不思議と、素直に、母に言えたんです。
確か、50円とか100円とかそんなもんだったと思うけど、母は、お金をくれて、行ってらっしゃいと言いました。
指定された場所へ行くと、誰もおらず、その日から、いじめられることは、無かったです。
大人になって聞きましたが、私をいじめた人たち、同級生からいじめられていたそうです。
いじめって、連鎖するんですよね。
そういう私も、いじめっこでした。
たとえば、虫の嫌いな女の子の筆箱に、羽をむしった蜂をたくさん入れて喜んだり、男の子の背中に、消しゴムちぎって入れたり、真空とび膝蹴りしたり、そんな事だったと思います。
そんな事?うん。そんな事。
加害者と、被害者の、温度差が、いじめのなくならない原因だと今は、思います。
加害者が、何故やめないのか?その心を知るしか、ないのではと。
池田先生がいじめはいじめる方が、100%悪いって言ってましたよね。
私は、そう言われるまで、正直いじめられる側にも、原因があるんじゃない?なんて思っていました。
今でも、知らず知らずに、傷つけていることもあるかも知れません。
いじめた方が、いじめたという自覚を持たない限り、いじめはなくならないのかもしれないと思います。
今は、いじめをみたら、ほっとかない。
人を、包みゆける人になりたいと思います。

とりあえず、おしまい
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by tomotiyoo | 2013-12-21 12:50 | Comments(7)

♪ピチピチちゃぷちゃぷらんらんらん♪

母は、体が丈夫になり、パートで、飲食店へ働きに行っていました。
家はかなり古く、玄関がきちんと閉まらない家で、私が結婚して、家を建て同居するまで、鍵を閉めた事のない家だったと記憶しています。
雨が降れば、雨漏りもする、そんなあばら家でしたが、よく友達は、遊びに来ていました。
親が留守というのは、子供にとっては、自由に伸び伸びとして、居心地のいいところだったのでしょう。
ある日、裸電球に、靴下をかぶせたら、明かりが、ピンクになって、とってもきれいでした。
その日に限って、ニッカポッカをはいた父が早く帰ってきました。
めったに怒らない父ですが、帰って来るなり
「お前達何やってるんだ!」
遊びで夢中になっていた私達は、気がつかなかったのですが、危うく火事になりそうだったのです。
私達って、馬鹿ですよね。誰も気がつかなかったんです。
電球は熱くなっていて、触れない状態でした。
今でも、どうしたのかは、覚えていないのですが、父がどうにかしてくれたのでしょうね。
今考えれば、守られたの一言ですが・・・
そう言えば、体育の時間、鉄棒から落ちて、背中を打った時も、声が出なくなってまずは病院にいったんでしょうが、家に運ばれた時は、いつもパートでいないはずの母が、いました。
姉からくすめた、お金で、隣の駄菓子屋さんで花火を買い、近所の子を集めて遊んでいたら、花火が私の浴衣の袖に入り、やけどをしたのですが、我慢をして帰ってきたら、両親ともいませんでした。
2階に住んでいるおばが、ジャガイモをすって、私の腕にぬってくれました。
もう、痛いのなんのって、ハンパではなかったです。
でも、私は痛さよりも、母に、怒られるという感覚の方が、恐ろしかったです。
どうにか怒られずにすみ、次の日に病院へ行くのですが、医者から、
「木綿の浴衣を着ててよかったですね。
もし、ポリエステルだったら、くっついてしまい、やけどのあとも残ってしまったでしょうね」と
あー やっぱり私ついてる。
うん。ずーっと守られていたんです。

私の、家での手伝いは、帰ってきた父の、弁当箱をお勝手に持っていくことです。
風呂敷に、包まれた弁当箱は、アルミ製で、新聞紙に包まれていました。
父の日課は、勤行をし、銭湯から帰ってくると、刺身と、奴で、ビールを飲む。
ほとんど、毎日だったと思います。
嫌いな父でしたが、腹巻にお金を入れていて、そのお金をくすめるため、たまにあぐらをかいた、ひざの上に座りました。
そして、アワアワと言って、ビールの泡を飲んでいました。
お子さんのいる人。子供にお酒を飲ませるのは危険です。
私のような大人になってしまいますよ。
そして、腹巻の中に手を入れて、頂戴といって、おこづかいにしていました。
左官や殺すにゃ刃物は要らぬ、雨の3日も降ればいい。
なんて昔の人は、言ったようですが、雨が降ると、幼稚園のお迎えは、父の役目でした。
私は、それが、嫌で嫌で仕方ありませんでした。
どこへ行っても、「おにいちゃん、おじいちゃんと一緒でいいね」と言われるからです。
私は、髪が短く、いつも男の子と間違えられ、父は、おじいちゃんと間違えられるのです。
大きくなってからは、人の家を創る仕事をしていながら、自分の家一軒も建てられない父に、嫌悪感さえ覚えました。
戸田先生の、青年訓「青年は親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。」この言葉に、ずいぶん悩みもしました。
それでも、生きている間に、父の事を尊敬できる自分になれたことは、信心の功徳そのものです。

つづく
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by tomotiyoo | 2013-12-21 00:00 | Comments(8)