2013年 12月 28日 ( 1 )

人はなぜ涙を流すのか?

涙とは、コミニュケーションの道具。
これは、去年の11月号、第三文明に載っていた、脳科学者 茂木健一郎さんの話です。

「まずは、泣く自分を受け入れること。
涙は必ず、感情の大きな動きと絡んでいる。
そして、涙というものは、コミニュケーションの道具でもある。
子供が転んで怪我をしてもその時泣かずに、お母さんの顔を見て泣き出す事が多い。
つまり、涙が、お母さんへのメッセージだという事だ。
一人で泣いても、コミニュケーションの道具としての、意味を持たない。
たまには、他人の前で泣いて、あなたの感じやすい心、豊かな情緒を相手に伝えてみてはどうか。
悲しい映画を見たり、感動的な小説を読んだりして、流す涙もいいが、それはあくまでも「借り物」
一生懸命生きて、いろいろ失敗して、あるときすべて人生の「ジグソーパズル」のピースが、そろった瞬間に、流れる涙が、もっとも尊い。
苦労の末に流した涙は、心の壁をこえていくのではないか。」と

私の友達、男でも、泣き上戸が結構いて、よく泣かせたものです。
でもそれは、今の自分が悔しいだけなのでしょう。
じっとこらえて今に見ろ。

諸法実相抄には(p1360)
「うれしきにも・なみだ・つらきにもなみだなり
うれしきにも・なみだ・つらきにもなみだなり
なみだはぜんあくに つうずるものなり 
涙は善悪に通ずるものなり
かのせんにんのあらかん ほとけのことをおもいいでて  なみだをながし
彼の千人の阿羅漢・仏の事を思ひいでて涙をながし、
ながしながら もんじゅしりぼさつは みょうほうれんげきょうと
ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と
となえさせたまえば せんにんのあらかんのなかの あなんそんじゃは
唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者は・
なきながら にょぜがもんとこたえたもう よの きゅうひゃく
なきながら如是我聞と答え給う、余の九百
きゅうじゅうにんは なくなみだを すずりのみずとして また
九十人はなくなみだを硯の水として、又
にょぜがもんのうえに みょうほうれんげきょうと かきつけしなり
如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり、
いまにちれんも かくのごとし かかるみとなるも 
今日蓮もかくの如し、かかる身となるも
みょうほうれんげきょうの ごじしちじを ひろむるゆえなり
妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり、
しゃかぶつ たほうぶつ みらい にほんこくの いっさいしゅじょうの
釈迦仏・多宝仏・未来・日本国の一切衆生の
ために とどめおきたもうところの みょうほうれんげきょうなりと
ために・とどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、
かくのごとく われもききしゆえぞかし げんざいの だいなんを
かくの如く我も聞きし故ぞかし、現在の大難を
おもいつづくるにもなみだ みらいのじょうぶつをおもうて
思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて
よろこぶにも なみだせきあえず とりとむしとはなけども なみだおちず
喜ぶにもなみだせきあへず、鳥と虫とはなけどもなみだをちず、
にちれんは なかねども なみだひまなし このなみだ せけんのことには
日蓮は・なかねども・なみだひまなし、此のなみだ世間の事には
あらず ただ ひとえに ほけきょうのゆえなり もし からば
非ず但偏に法華経の故なり、若しからば
かんろのなみだとも いつべし ねはんきょうには ふぼ きょうだい
甘露のなみだとも云つべし、涅槃経には父母・兄弟・
さいし けんぞくにわかれて ながすところのなみだは しだいかいの
妻子・眷属にはかれて流すところの涙は四大海の
みずよりも おおしといえども ぶっぽうのためには いってきをも
水よりもををしといへども、仏法のためには一滴をも・
こぼさずとみえたり ほけきょうの ぎょうじゃとなることは かこの
こぼさずと見えたり、法華経の行者となる事は過去の
しゅくじゅうなり おなじ そうもくなれども ほとけと つくらるるは
宿習なり、同じ草木なれども仏とつくらるるは
しゅくえんなるべし ほとけなりとも ごんぶつとなるは また
宿縁なるべし、仏なりとも権仏となるは又
しゅくごうなるべし
宿業なるべし。」

どうせ流す涙なら、折伏できたと、喜んで、共々に涙を流したいなー と思うちよである。
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by tomotiyoo | 2013-12-28 00:00 | Comments(30)