2014年 06月 09日 ( 1 )

赤鬼さんの体験談

赤鬼の体験談                      Akaoni
 私の入信は、昭和39年(1964)9月です。
入信前の生活は、村で一番の貧乏と笑われるほどの生活をしていました。
 昭和18年(1943)横浜で生まれた私は、20年4月、空襲で家と祖母を失い、祖父の郷里である滋賀県東部の村はずれの田んぼの中に、8畳余りの小屋を建て、そこで私たち兄弟3人と母親だけの生活が始まったのです。
(祖父はすでに亡く、父は出兵していて、そのまま帰らぬ人となりました)
 その小屋は電気も通っておらず畳もなく、農業用の井戸水を飲料水とする生活で、草ぶきの屋根は雨もりがし、真冬になれば、雪が枕元にまで舞い込むという有り様でした。
 そんな中で中学を卒業し、町の鉄工所へ働きに出たのですが、元来、内向的な性格であった私には、親しい友人もできぬまま、好きな本を読んでは『生きるとは何だろう?』『人生とは?』と、ひとり哲学じみたことを考え、夢想する毎日を送っていました。
 そんな時だったと思います。とある知り合いから『創価学会』なる単語を耳にしたのは・・・・。
 彼は幾度となく『幸福になろう』『明るい性格に変わろう』と、折伏してくれましたが、信心で性格が変わるとは、とうてい信じられなかった私は、彼の話し相手にはならず、また、元来内向的な性格も手伝って、ますます落ち込み、自分というものが分からなくなり、自殺未遂まで起こしたのです。
 そんなある日の事、違う友人が、私を元気づけようと思い『遊びに来ないか』という事で母と二人で出かけてみると、そこには鶴のマークの入った仏壇があったのです。
 何人かの知らない人が集まって来て、あれやこれやと話しているうちに、(座談会だったのですね)私たちを思う真心にうたれたのか、母は『入信する』と言い出し、面倒くさくなった私も、入会するはめになりました。
 その夜、ミカン箱に半紙を張り合わせて祭壇を作り、牛乳瓶にシキミを立て、私たちの信心がはじまりました。
 しかし、学会員といったものの、信心する気など全くなかった私は、勤行はおろか、座談会にも出席しませんでしたが、母は熱心に信心していたようで、この母の功徳により入信6ヵ月後、彦根の地で、6畳一間、トイレ・炊事場は共同というアパートですが、電気のつく部屋に引っ越すことができたのです。
  こうして彦根に引っ越してくると、今度は男子部の空襲がはじまりました。彼らは2・3人のグループでやってくると、色々、難しい話をして帰っていきます。居留守を使おうにも6畳一間ではどうすることもできません。無理やりの形で会合に連れ出され、気が付いたときには役職を受け、友人も折伏していました。 
 そんなある夜、会合の帰り、激しい頭痛に襲われ、その場にしゃがみ込んでしまいました。翌日、診察を受けると鼻の中の血管か損傷・化膿し、膿が頭の中にたまっているとのことで、命にも及ぶかもしれないということでした。
 直ちに緊急手術を受け、一命はとりもどしたものの、弱った血管は、ちょっと無理をしただけですぐ現象が出ます。幸い脳のほうにはいかず、鼻血になったため、救われたのですが、あらゆる薬で一時的な出血は抑えられるものの、決定的な治療法はありませんでした。(現在では医学が発達し、簡単に治療できるそうです)
 特に雨の日や、気候の変化が激しい冬は特にひどく、眠っている間にシーツを真っ赤に染めたことも、幾度となくありました。
 そんな朝は身体もふらふら、到底仕事などいけません。一か月に半分仕事にいくのがやっとという日々が数年つづきました。
 心配した先輩は、男子部の主任務であった警備担当から、比較的室内にいられる設営部員に任命してくれました。
 当時の設営部の仕事は、外部会場を借りて行われていた幹部会等のバックタイトルの制作です。模造紙を何枚も張り合わせて、ステージのバックを装飾するのです。
 しかもわたしたちは、デザイナーや看板屋などのいない素人の集まり。制作する者は最も多く使った外部会館を例にすると、高さ4・5メートル幅12メートルという大きさです。
 当然それだけの物を一所に広げて書くような会場はありません。張り合わせがうまくいかず、文字のバランスが崩れたり絵の具が流れたり、失敗の連続でしたが、幹部の方から『真心の作品だ』と使っていただいたこともありました。
 このことが縁で、昭和47年(1972)池田先生を滋賀県立体育館に迎えての記念撮影の折には、大工さんたちの手伝いとして、舞台設営にも参加させていただきました。
 当日は朝からの曇り空が、午後から雨になり、私たちが舞台の解体を始めたころは、激しい雨となりました。当然雨は私の身体の大敵です。だからといってやすむ事も出来ず、作業に参加したところ、翌日、妙法の功徳によって、先生に守られ、元気に出勤することができたのです。
 以来あれほど苦しんでいた病魔もすこしずつ回復の兆しが見えだし、昭和49(1974)~53(1983)の5年間にかけて、会社から年間皆勤務賞の表彰をうけるまでになりました。
 また、設営部は発展して関西鉄人会となり、大阪・長居陸上競技会での関西文化祭、京都・滋賀・福井合同の三県文化祭、琵琶湖研修所落成法要等、(順序は前後しています)先生を迎える設営だけでも8回の思い出を作っていただき、男子部卒業の日までお世話になることになりました。
 昭和62年(1987)9月には、JRの駅から徒歩3分のところの160坪(うち畑30坪)建坪延べ60坪の古家を購入し、一部を30畳の仏間とし、別室に10畳の図書室を作り、座談会・協議会・また男女青年部の懇談・修学の場として現在も利用していただいています。(図書室には昭和31年当時の大白蓮華~現在・(数巻かけています)三代会長全集(新・旧とも全て揃っています)人間革命・新人間革命、御書講義録(全巻)青年部教学研修シリーズ(全巻))などが揃っており、地域の皆さまの教学研修の部屋として使っていただいております。
 平成11年(1999)9月には事故により頸椎を損傷し、全く動けない状態、病院の先生からは、『治っても車いす生活』といわれたそうですが、地域の学会員の懸命な題目に守られ、入院5ヵ月を経て、走ることはできないまでも、歩くに不自由なく、指先で箸は使えませんがスプーン・フォークでの食事は問題なく、身の回りのことはすべて一人ででき、また、入院中の指のリハビリとして教えていただいたパソコンは、以前から集めていた創価教学を学び、それを発信する個人ページとして最高峰(自慢しておこう)のものを作らせていただいております。
 幼少の頃苦労ばかりだった母も、平成15年(2003)6月地域の皆さまに守られ、霊山に送ることができました。
 池田先生有り難うございました。思えば電気さえない生活をしていた私が、地域の皆さまに集っていただける会場を管理させていただいております。
 日蓮大聖人様、有り難うございます。中学しか卒業していない私が、最高峰の哲学を同志の皆さまに配信させていただける身分とならせていただきました。
 生涯求道・生涯学習。これこそ我が一念と定め、今日より更に前進させていただきます。

H26.6.6.
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by tomotiyoo | 2014-06-09 00:00 | Comments(31)