2014年 07月 14日 ( 1 )

無作三身とは 
本来のまま、
ありのままの仏

三身とは法 報 応をいう

法=理体  報=智慧  応=肉体

「おんぎくでんにいわく 
「御義口伝に云く

このほんの だいもくは にちれんが みにあたる だいじなり
此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり

じんりきほんの ふぞく これなり
神力品の付属是なり、

にょらいとは しゃくそん そうじては じっぽうさんぜの しょぶつなり
如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり

べっしては ほんち むさの さんじんなり
別しては本地無作の三身なり、

いま にちれんとうのたぐいのこころは そうじては にょらいとは いっさいしゅじょうなり
今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり

べっしては にちれんの でしだんななり
別しては日蓮の弟子檀那なり、

されば むさの さんじんとは まっぽうのほけきょうのぎょうじゃなり
されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり

むさの さんじんのほうごうを なむみょうほうれんげきょうというなり
無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、

じゅりょうぼんの じの さんだいじとは これなり
寿量品の事の三大事とは是なり、

ろくそくのはいりゅうのときは このほんの にょらいは り そくの ぼんぷなり
六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり

こうべに なむみょうほうれんげきょうを ちょうだいしたてまつるとき みょうじそくなり
頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、

そのゆえは はじめてきくところの だいもくなるがゆえに ききたてまつりて しゅぎょうするは
其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは

かんぎょうそくなり
観行即なり

この かんぎょうそくとは じのいちねんさんぜんの ほんぞんをかんずるなり
此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、

さて わくしょうを ふくするを そうじそくというなり
さて惑障を伏するを相似即と云うなり

けたにいずるを ぶんしんそくというなり
化他に出づるを分真即と云うなり

むさのさんじんのほとけなりと くきょうしたるを くきょうそくのほとけとはいうなり
無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、

そうじて ふくわくをもって じゅりょうほんの きわめとせず ただ ぼんぷのとうたいほんうのままを
惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の儘を

このほんの ごくりと こころえべきなり
此の品の極理と心得可きなり、

むさのさんじんのしょさは なにものぞというとき なむみょうほうれんげきょうなり うんぬん
無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云。
(御書P752)

「おんぎくでんにいわく このほんのしょせんは くおんじつじょうなり
御義口伝に云く此の品の所詮は久遠実成なり

くおんとは はたらかず つくろわず もとのままというぎなり
久遠とははたらかさずつくろわずもとの侭と云う義なり、

むさのさんじんなれば はじめて じょうぜず これ はたらかざるなり
無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、

32そう 80しゅこうを ぐそくせず これ つくろわざるなり
卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり

ほんうじょうじゅうの ほとけならば もとのままなり
本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、

くおんとは なむみょうほうれんげきょうなり
久遠とは南無妙法蓮華経なり

じつじょう(まことにひらけたり) むさと ひらけたるなり うんぬん
実成無作と開けたるなり云云。」

御書 P759 第廿三 久遠の事

池田先生 講義より

「働かずとは 生命の自然の発動

繕わずとは 虚栄でなく 信心に徹し 
ありのまの人間性でいく事

本の侭とは 己心の地獄界は地獄界のまま 餓鬼界は餓鬼界のまま 妙法に照らされ、すべて幸福へと働くことが本の侭ではないか 

実成無作と開けたるなりとは 仏界の湧現である
学歴も 知識も 地位も 財産も 経験も すべて人間革命の土壌の上に 最高に生かされていくことを知っていただきたい
これ 人間完成の究極であり 偉大なる人生行路の生きた指針であると訴えたい」

なんて素晴らしい信心なのかと また感動を覚える
ありのまま 私は私の使命を ただ 全うするだけである
悩みながら 苦しみながら ただ ご本尊と共に 池田先生と共に 同志(とも)と共に 前に前に
進んで行こうと思います

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by tomotiyoo | 2014-07-14 09:42 | Comments(44)

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