2015年 03月 12日 ( 1 )

辧殿尼御前御書(変更あり)

「べんどのあまごぜんごしょ
辧殿尼御前御書

ぶんえい10ねん9がつ 52さいおんさく
文永十年九月 五十二歳御作
 
 あたう にっしょう はは みょういち
与日昭母妙一

しげければ とどむ
しげければとどむ、

べんどのにもうすだいしこうを おこなうべし
辧殿に申す大師講を・をこなうべし・

だいしとて まいらせてそうろう
大師とてまいらせて候、

さぶろうざえもんのじょうにそうろう
三郎左衛門尉殿に候、

ごもんのなかに ねはんきょうのこうぶん 2かん・もんぐ5のほんまつ・
御文 のなかに涅槃経の後分二巻・文句五の本末・


じゅけつしゅうのしょうのじょうかんとう・みずいじんあるべし
授決集の抄の上巻等・御随身あるべし。

 さだとうは 12ねんにやぶれぬ まさかどは 8ねんに傾ぶきぬ
貞当は十二年にやぶれぬ・将門は八年にかたぶきぬ、

だいろくてんのまおう・じゅうぐんのいくさを・おこして・
第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・

ほけきょうのぎょうじゃとしょうじかいのかいちゅうにして どうこえどを・とられじ
法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・

うばわんと・あらそう
うばはんと・あらそう、

にちれん そのみにあいあたりて たいへいを・おこして20よねんなり
日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、

にちれん 1ども しりぞくこころなし
日蓮一度もしりぞく心なし、

しかりといえども でしら・だんなとうのなかに おくびょうのもの だいたい あるいはおち
しかりと・いえども弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち

あるいはたいてんのこころあり
或は退転の心あり、

あまごぜんの いちもんふつうの しょうしんに・いままで・しりぞかせたまわぬこと
尼ごぜんの一文不通の小心に・いままで・しりぞかせ給わぬ事

もうすばかりなり
申すばかりなし、

そのうえ じしんの つかうべきところに げにんをひとり つけられてそうろうこと
其の上自身のつかうべきところに下人を一人つけられて候事

さだめて しゃか・たほう・じっぽうぶんしんのしょぶつも ごちけんあるか きょうきょうきんげん
定めて釈迦・多宝・十方分身の諸仏も御知見あるか、恐恐謹言。

 9がつ19にち にちれんかおう べんどのあまごぜに もうさせたまえ
九月十九日 日蓮花押 辧殿尼御前に申させ給へ」

先生の講義より抜粋

本抄は、この尼御前に辧殿が読み聞かせるためのお手紙です。

1000人のうち999人は退転したといわれる迫害です。

十軍のいくさとは
①欲
②憂愁(憂えること)
③飢渇(飢えと乾き)
④渇愛(五官を通して起こる欲望に愛着すること)
⑤睡眠
⑥怖畏(おそれること)
⑦疑悔(うたがいやこうかい)
⑧瞋恚(いかり)
⑨利養虚称(利を貪り、虚妄の名聞に執着すること)
⑩自高蔑人(自らおごり高ぶり、人を卑しむこと)
━すべて自身の心に起こる魔の働きです。

「魔」とは「奪命者」であり「奪功徳者」です。
つまり、善く生きようとする生命のエネルギーを奪い、それまで積み上げてきた福徳を奪うものです。

たとえ財産が奪われても、病気や怪我をしても、信心の心さえ壊されなければ、再び立ち上がり、
挑戦し、勝利し、幸福を築くことができます。
「心こそ大切」であり、その最も大切な心を破壊しようとするのが魔の本性なのです。
戸田先生は、「広宣流布の戦だけは、絶対に負けるわけにはいかない。
たじろぐことは許されない。
負ければ、人類は、永遠に闇に包まれてしまう。
民衆救済の尊い使命ある学会は、何があろうと負けてはならないのだ!」と、
強く言われていました。

大聖人は、退転の主たる原因を、鋭く見抜かれています。
それは「臆病」です。」と

臆病風に吹かれることなく 「挑戦と応戦」の闘争に 断固と勝っていきましょう
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by tomotiyoo | 2015-03-12 05:00 | Comments(26)