2015年 03月 26日 ( 1 )

弾琴の譬え

「慈悲の仏といわれた釈尊という人は、よほど対話の達人であったらしい。

「琴を弾(だん)ずるには、弦をしぼりすぎると妙(たえ)なる雅やかな音が出るだろうか」
「世尊よ、それは出ません」
「では、弦を弛く(ゆるく)すれば、そのような音が出るであろうか」
「世尊よ、それは出ません」
「それでは弛くもなく、しぼりすぎでもなければ、微妙にして雅やかな音が出るだろうか」
「世尊よ、おっしゃるとおりです」
「この仏道修行においても同じことがいえるのである。
 急激な精進は心が不安定で身につかない。
 弛すぎる精進でも、怠惰な心にとらわれてしまう。
 どちらにも偏らず、調和をとって修行に励むべきである」

いわゆる”弾琴の譬え”である。
釈尊はここで、苦行主義と快楽主義の、どちらか一方に偏ることなく、たえず「中道」を
歩んでいくいき方を宣揚している。
それは「苦しみ」も「悲しみ」も、ほどほどでよいのだという、中途半端な哲学でも、指針でもない。
より深い次元から、苦楽に粉動される事のない、大地のように磐石な心を築き上げるのが
先決だと言うのである。
 してみると、この課題は意外なほど、わらわらの身近なものとなっていくであろう。
 一時の感情にとらわれ、環境に振り回されるようなことがあっては、まことに愚かな生き方と
言わざるをえない。
 「中道」とは、「道に中る(あたる)と読む。
なにが道であるかは、むずかしい問題であろうが、それは決して断定的なものとしてあるのではない。
さまざまに変化しゆく日々の生活の中で、主体的に選び取らなければならないものであろう。
 「琴の弦」を緊(し)めすぎたり、弛(ゆる)めすぎたりする事なく、見事な人生の和音を奏でていく
日々でありたいものだ。」
(昭和53年5月)
池田大作全集22巻P338より抜粋)

釈尊は、一言も発せず、容貌のみで相手を説得してしまったことがあるという
女子部の頃 男子部の先輩で 握手だけで入決が取れてしまう人がいた
当時私が勤めていた会社の後輩も その人と握手をしただけで 入会希望カードにサインをした
もちろん それで簡単に入会したわけではないのだけれど それはそれで 凄い事だった
私も バカボンパパが連れて来た友人には ほとんど 入決が取れた
その頃 お題目を 沢山あげていたことは 間違いない
釈尊のようにはいかないだろうが 相手を思う一念があれば 必ず思いが届く時がある
それは 今世か来世かは 分からない
しかし できれば 今世で この目で 結果を見たいものである
その結果の為にも 今 因をつんでいるのだから
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by tomotiyoo | 2015-03-26 05:00 | Comments(10)

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