2015年 05月 12日 ( 1 )

我執、驕慢が異心の本源

あまつさえ にちれんがでしのなかに いたいいしんのもの これ あれば

れいせば じょうしゃとして しろをやぶるがごとし

「剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し、」

「異体異心の者は、師子身中の虫であり、最大の敵であるとの仰せです。
なにゆえ異心に陥ってしまうのか。
私は、その異心の本源は、我執であり、自己の利益、自己の感情・慢心を中心とした
行き方であると考えるのであります。
異体同心を破るものは「大怨敵」とあるように「怨(うらみ)」の心からであることが明らかです。
しかもその発端は結局、私怨なのです。

私も、驕慢のために、人間革命の道からはずれていった例をたくさん知っている。
自己を諌める直言、あるいは歯に衣きせぬ指導のあったときこそ
人間革命の成否を決する分岐点にいることを、深く心すべきだと主張したいのである。

 五老僧のうちの一人、大国阿闍梨日朗(だいこくあじゃりにちろう)は、大聖人のもとにあっては、
まさに師弟不二の法戦を展開し、それゆえに入牢の身ともなったおります。
大聖人がその日朗の強情な信仰を賞賛されている事は「土籠御書(つちろう)」(1213P)に
書かれている通りであります。
この日朗が、第二祖日興聖人の時代に入って違背し、一歩後退している事実こそ、
私は後世の信仰者が銘記すべき広宣流布への重大な意義が刻印されているように思えてならない。
 本果妙のお立場であられた日蓮大聖人のもとでは活躍した。
しかし本因妙の立場である日興聖人の時代においては背信していることは、当然の事として
「三世各別あるべからず」の御聖訓に背くものであり、この原理はそのまま、現在、未来にも
通ずる仏法弘通上の重要な明鏡として拝さなければならないのであります。
 組織の目的をはきちがえて、自己の名誉欲、権勢欲充足の手段として利用するかもしれません。
このことは内外にわたることも申すまでもない。
あるいは自身の興味の満足の場として学会に身を置こうとするかもしれない。
 これらは、すべて異体異心の者であり、いざという時には「城者として城を破る」
姿になるでありましょう。
順調な時はいい。
自己の我が通り、願望が叶っている間は、学会をたたえさえするでありましょう。
しかし、いったん学会が厳しい現実に直面したり、自己の思い通りにならない状態に
立ちいったりした場合には、たちまちのうちに本音があらわれ、学会を足蹴にしてくるものであります。
そうした人が、罪を無限に開き、現実に暗く、みじめな姿になってしまっていることは、
大変悲しいことですが、因果の理法として、どうしようもない実相なのであります。」
(生死一大事血脈抄の池田会長講義)

何回も読ませていただいているこの講義
そのくせ いざという時に忘れ 退転してしまった過去
もう二度とあのような地獄のような日々は 繰り返したくない
また 経験させてはいけない
しかし 過去さえも変えられるこの信心
自分の経験を生かし 後世の人に語り継ぎたいと思う

※ 以前載せた記事です
[PR]

by tomotiyoo | 2015-05-12 00:00 | Comments(11)