2017年 01月 15日 ( 1 )

自由葬

勤行・唱題 焼香 儀典長あいさつがが終わって

本日は お忙しい中 母 〇〇 〇子のために お集まりいただいて 本当にありがとうございます

母は 私と違って おしゃれな人でした
花が好きで 歌が好きで 笑うことが大好きでした
そんな母の事を思い 服装も自由でいいのではないかと あえて 自由葬とさせていただきました

私が 母の家に行くには 踏切を渡らないといけません
そんな時 思い出すのが 母が好きだった 私の作った歌 踏切を超えてです
ご存知の方は 一緒に歌ってください

(地区総会で 発表した時のⅮⅤⅮを流し 当時の地区の方も 歌ってくれました)

母の遺品を整理していると 聖教新聞の切り抜きや 信仰体験の原稿など 色々でてきました
その中に「娘のちよは お母さん 病気でもボケでも 3日は見てあげるからね
これでは うかうかボケてもいられません と書いてありました
私は 年老いた母の手を どうしても引くことができませんでした
それでも 去年の 11月20日 私の誕生日に 母の手をひいて 我が家に招きました
母は 私が鬱になった時から 私の誕生日には 毎年 何が欲しい?と 聞いてくれました
去年だけは どうやら 忘れていたようです
そして 次の日 シルバーカーを忘れたのか 買い物に行く途中 転んでしまい 大腿骨骨折
〇〇さんをはじめ 近所の方には 大変お世話になりました
手術も成功 歩く練習も始め 12月25日ごろ 退院の予定でした

しかし 医師からは 心臓もだいぶ弱っているし 誤嚥性肺炎を起こしかけていると 話がありました
12月23日 私の友人が 花をもってお見舞いに来て下さると 母は クリスマスはどうするの?と私に聞きました
何年か前 圧迫骨折で入院した時の事を思い出したようで ここは にぎやかなんだよ と話していました
クリスマスカードや クリスマスソングが ベットのわきに置かれていました
面倒見の悪い私は 入院が延びてかえってよかった と 安心しました 
バイバイをして そのあとは 眠っている事が多くなりました
ひ孫たちが来た時も寝ていて ちっとも起きなかったようです

翌日の午前2時ごろ 病院から 電話があり その時は まだ息があったのですが 私は よく頑張ったね
もう いいよ ありがとう と 声をかけました
母は 常々言っていました
延命治療もいらないし 夕日のようにパッと輝いて この世を去るんだと
そして その日の 午前9時ごろ 息を引き取りました
見事な 最期だったと思います
ダメ娘の 私のために 箪笥の奥から別の封筒で 姉の名前と私の名前で 本部にもっていってくださいと わずかですが お金が入っていました
最期の ご供養も しっかり残していた母に 本当のご供養の精神も教わりました
入院したのが 私の 誕生日の翌日 亡くなったのが 姉の誕生日の翌日
補聴器も 結局は 新しいものも買わず 
お供えのお餅も 買わなくていいと
そして 新年も我が家で・・・
すべて 母の計画通りの 最期だったのかと 不思議に思ってしまいます

葬祭ホールのご厚意で 私の望みであった 母との時間を 1月5日まで伸ばしていただいて 姉 兄 親戚 友人たちと 母とで一緒にいることができました
お題目で母との対話もできました
やっぱり 最期は 感謝しかありません
母が 人と人とを 繋いでくれているのだと 今更ながらに 母の娘でよかったと 嬉しく思っています
きっと 母も ここに来てくださった皆様の事 大事にしてほしいと思っていることでしょう
そんな母のために 池田先生が作ってくださった 母を一緒に歌ってください

全員で 合唱した後 花入れをして 火葬場に向かいました

後日談ですが 葬祭スタッフの方が やっぱり題目なのかな~?と 語ってくださっていたようです
母に 負けないように 頑張らなくっちゃね(^^♪



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by tomotiyoo | 2017-01-15 00:00 | Comments(12)