2017年 05月 03日 ( 1 )

5.3 おめでとうございます

随筆「新・人間革命」80


昭和5453日 獅子となりて 我は一人征く


1979年、すなわち昭和54年の53日——。


間もなく、創価大学の体育館で、“七つの鐘”の総仕上げを記念する、第40回の本部総会が行われることになっていた。

 本来ならば、その日は、私は、偉大なる広宣流布のメッセージを携えて、創価の栄光を祝賀する日であった。

 すべての同志が熱意に燃えて、楽しき次の目標をもち、至高の光を胸に抱きながら迎えゆく、歓喜の日であった。

 尊い広布の英雄たちが微笑(ほほえみ)をたたえ、共々に、珠玉の杯(さかずき)を交わしながら祝うべき日であり、大勝利の鐘を自由に打ち鳴らす日であった。

 しかし、嫉妬(しっと)に狂(くる)った宗門をはじめ、邪悪な退転者等の闇(やみ)の阿修羅(あしゅら)が、この祝賀の集いを奪い去っていったのである。

 午後2時から始まる総会の開会前であった。

 妬(ねた)みと滅びゆく瞋恚(しんに)の魂をもった坊主を乗せたバスが、大学に到着すると、私は、ドアの前に立ち、礼儀を尽くして、彼らに挨拶した。

 ところが、坊主たちは、挨拶一つ、会釈一つ返すわけでもなく、冷酷な無表情で、傲然(ごうぜん)と通り過ぎていった。

 学会伝統の総会も、いつものように、学会らしい弾けるような喜びも、勢いもなく、宗門の“衣の権威”の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった。

 ある幹部が後で言っていた。

「冷たい墓石の上に座らされたような会合であった」

 激怒した声が多々あった。

 会場からの私への拍手も、遠慮がちであった。

 また、登壇した最高幹部は、ほんの数日前の会合まで、私を普通に「池田先生」と言っていたのが、宗門を恐れてか、ただの一言も口にできない。

 私をどうこうではない。

 それは、強き三世の絆(きずな)で結ばれた、会員同志の心への裏切りであった。

 婦人部の方が怒っていた。

「どうして、堂々と、『今日の広宣流布の大発展は、池田先生のおかげです』と言えないのでしょうか!」と。

 私が退場する時も、戸惑いがちの拍手。

「宗門がうるさいから、今日は、あまり拍手をするな。

特に、先生の時は、拍手は絶対にするな」と、ある青年部の最高幹部が言っていたと、私は耳にした。

 恐ろしき宗門の魔性に毒されてしまったのである。

言うなれば、修羅(しゅら)に怯(おび)えた臆病者(おくびょうもの)になってしまったのである。

 しかし、私を見つめる同志の目は真剣であった。

声に出して叫びたい思いさえ、抑えに抑えた心が、痛いほど感じられた。

 体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、けなげな婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない。

 会合が終わり、特別の控室にいた高僧や坊主どもに、丁重(ていちょう)に挨拶をしたが、フンとした態度であった。

これが人間かという、そのぶざまな姿は、一生、自分自身の生命に厳存する閻魔法王に、断罪されることは、絶対に間違いないだろう。

 仏法は、厳しき「因果の理法」であるからだ。

 私は思った。

 宗門と結託(けったく)した、学会攪乱(かくらん)の悪辣(あくらつ)なペテン師たちは、これで大成功したと思い上がったにちがいない。

彼らは、「これで、計画は着々と準備通りに進んでいる。これでよし! これで完全勝利だ」と計算し、胸を張っていた。

 その陰湿(いんしつ)さと傲慢(ごうまん)さが、私には、よく見えていた。

 私は、ずる賢き仮装の連中の実像を、その行動から見破ることができた。この陰険(いんけん)極(きわ)まる、狡猾(こうかつ)な連中には、断固として、従ってはならない。いかなる弾圧を受けようが、「忍耐即信心」である。

 学会は、蓮祖の仰せ通りの信仰をしている。死身弘法の実践である。

柔和な忍辱(にんにく)の衣を着るべきである。

 学会に敵対する彼らは、蓮祖の姿を借りて、真実の仏の使いを道具にし、利用し、破壊しているのである。

 これが、恐ろしき魔性の荒れ狂った、現実の実態であった。

 あまりにも悲しく、あまりにも情けなかった。

 本来、宗教は、人間の幸福のためにあるものだ。

 それが、坊主の奴隷(どれい)になり、権威の象徴の寺院・仏閣の下僕(げぼく)になってしまうことは、根本的に間違いである。

 私は、重荷を、また一層、背負った気持ちで、皆と別れ、自宅には帰らず、神奈川文化会館に走った。

「今朝の新聞に、先生のお名前が出ていました」

 神奈川文化会館で、側近の幹部が教えてくれた。

 この3日付の読売新聞には、日米国民の「生活意識」調査の結果が掲載されていた。

 その中に、日本人が「尊敬する人物」に挙げた上位20人の第6位に、私の名前が出ているというのであった。

 上から、吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、そして、昭和天皇と続き、その次が私である。

「会長勇退」直後の53日に、このような記事が出たことに、私は不思議なものを感じた。

 また、同志の皆様が、懸命に私を応援してくださっているようにも思われた。

 数日後、ある識者の方からいただいたお手紙は、この調査のことを非常に驚かれ、こう結んであった。

「現存する人物では、民間人の第1位です。

 そして、日本の宗教界では、貴方、お一人だけです。

まさに宗教界の王者です。

どんなに、戸田会長がお喜びになるでしょうか!」

「大事には小瑞(しょうずい)なし、大悪を(起)これば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし」(1300頁)とは、日蓮大聖人の絶対の御確信であられる。

 誰が何と言おうが、私は私の信念で勝つことを決心した。

 そして、ただ一人、今まで以上の多次元の構想をもちながら、戦闘を開始した。

「獅子は伴侶(はんりょ)を求めず」とは、よく戸田先生が、私に言われた言葉である。

 一人、孤独(こどく)になった私は、無言のうちに、必ずや、真実の伴侶はついてくるであろうと信じていた。

 師弟の両者が一つの姿で、無限に戦い、舞い、走り、勝利しゆく。

私は、その新しき時代の、新しき伴侶を待っていた。

 神奈川の地は、世界に通じる港である。

 ここから、私は「一閻浮提広宣流布」との大聖人の御遺言を遂行する、決意を新たにした。

そして、「正義」という二字を書き記した。

 この意義を深く留めて後世に伝えてほしいと、側にいた数人の弟子に託した。 55日のことである。

 いったん帰京した私は、東京の開拓の新天地、第2東京の拠点の立川文化会館に向かった。

すでに、夕方近かった。 

別な世界を見る思いで、まさに沈みゆかんとする夕日の光景を、しばし呼吸した。

夕暮れの立川に着くと、その清楚(せいそ)な頬(ほほ)に頬(ほお)ずりしたいような、憧れの月天子が、顔を見せてくれた。

 私は一詩を詠んだ。

 西に 満々たる夕日    

 東に 満月 煌々(こうこうと)たり

 天空は 薄暮(はくぼ) 爽(さわ)やか  

 この一瞬の静寂(せいじゃく)

 元初の生命の一幅の絵画  我が境涯も又

 自在無礙(じざいむげ)に相似(そうじ)たり

 この日、511日の日記に記したものである。

 世界の創価学会は、太陽と同じく、太陽の生命で、永遠に転教を休むことなく、進みゆくことであろう!

 また、断固、勝っていくことであろう!

199951日付 聖教新聞】


これは どなたか分からないのですが ネットのコピペです

無断で ごめんなさい


当時私は、19歳

ニュースで、先生のご勇退を知る

内容は、全然知らされない

ただ、「寺にはいくな」 と

あれから 37年 紆余曲折があったものの 今 学会の庭にいられることに 感謝

今まで お世話になった 数多くの 先輩 友人 そして 両親に感謝

縁あるすべての人に感謝

本当に 本当に ありがとうございます




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by tomotiyoo | 2017-05-03 00:00 | Comments(24)