真実を語る

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ちよが、本音で語るブログです

2017年 08月 12日 ( 1 )

「池田先生にお目にかかってなかったら、私はとうに死んどる」。
その言葉がちっとも大げさではないことは、小比賀絹子さん(89)の足跡をたどれば合点がいく。
31歳で大腸がんになった。手術費がなく、生きることを諦めた。
母が「最後の花道だから」と用意した振り袖を着て、よたよたと退院した。
足裏の浮腫に死期を感じた時、小比賀さんは4年半も拒み続けた信心を始めた。
「悪い宗教が元で死ねるなら、それもええ」。
捨てばちな決断だったが、学会の同志は命に潤いを与えようとした。
満足に歩けない小比賀さんを板に乗せ、瀬戸内海の直島から船に乗せた。
訳も分からず連れてこられた東京の日大講堂。
2階席の手すりをつかんで参加したのは、池田先生の第3代会長就任式だった。
その後、友の唱題に手を押され、「3人前の信心せんな」と腹を決めた。心が体を突き動かし、足を引きずって歩けるようになった。
粗末な服で参加した夏期講習会。昼食代もなく、一人で唱題していた。
思いがけず、池田先生と出会う。「何があっても生きるんだ」と、みかんの缶詰を握らせてくれた。
宿に帰って、みんなと湯のみに分けた。
小比賀さんは自らの口に入れなかった。空き缶だけで幸せだった。

「臨終只今の思い」は、こと信心になると鬼の形相でつかみかかってきた夫をも、入会に導いた。
その直後のことだった。夫が仕事中の事故で他界した。
悲運に立ち向かう妻は、我が子の手を引いて、故郷の高松市へ向かった。
実家は厳しいもんや。「聖教新聞が家の敷居をまたぐのは許さん」と。
夫の会社からのお悔やみを少しずつ渡した。3カ月で38円しか残らんかった。
そしたら「出て行け」と。「家賃」いう貼り紙を探しては、頭を下げた。
雪のちらちら降る日に、ようやく家を見つけた。でも貧しさゆえに、ご飯がない。
小さい子がおる。
仕事せないかん。

ある日、トロ箱(鮮魚を入れる箱)を積んだ自転車がタバコ屋に止まっとん。
「よし、魚の商業をやろう」。
自転車の持ち主からトロ箱を一つもろうた。魚屋で3カ月修行した。
鐘を鳴らして行商に歩いたけど、チョロチョロしか売れん。
かっぱを買うお金はありません。
行商で雨にぬれることぐらいは頓着せん。
ラーメン買うてきては、お湯沸かした。
誰かに「子どもには果物も食べさせな、いかんのぞ」と言われた。
そりゃ食べさせたかった。でも果物を買う余裕がない。
子にラーメンすすらせて、残りの汁を私がすすっての。
武士は食わねど高ようじで働いた。
それでも家賃が払えんで、福祉施設の母子寮に入った。
人間の影法師は、働いたらどこまでも、ついてくる。
宿業も一緒。なんぼ逃げても、ついてくる。
宿命転換する以外に道はない。池田先生に誓うた。

「たとえ飲まず食わずでも、子供だけは広宣流布のお役に立つ子に育てます」。
そしたら、先生の声が心に響いてくる。
「題目上げてるよ。頑張れ。頑張れ」。
不可能を可能にする信心させてもろうとるん。
強く生きな、いかんのや。
3カ月で8万できた。
それを元手に店を始めた。
薄板で隔てた。
駅の待合所の裏側。正味3坪ないし4坪。
セメント分けてもろうて、魚飾る台を自分で作った。
屋号は、徳川家康の康をとって「魚康」にした。鐘鳴らして客呼んで、題目あげて働いた。
節穴から目玉がのぞいとるん。
目玉のあるじに「信心しましょう」と声掛けた。
貧しい身なりを笑われたけん、こう言うた。
「今は仮の姿。この姿をじっと見よってよ。必ず信心の凄さを示すから」
魚売りながら考えることは、折伏だけや。
「池田先生、三編とは申しません。
一編の題目を小比賀絹子に送ってください」。
一生懸命の信心を語った。
そうさせまいとする働きも強い。
常に魔と戦うた。
常に自分の信心を試された。
息子が20歳で亡くなっての。
昭和50年や。
船乗りになって、お母ちゃんを世界航路に連れていく」と言うてくれたのに………。
店の中で、いっとき泣いたです。
これからどうやって自分は生きていくんやろ。
でもそれ以上泣くことは、貧しさが許してくれんかった。

午前2時には市場の食堂で朝ご飯食べさせて、学校へ送る。
うれしいこともあったけど、悲しいことがありすぎた。
だけども全部自分の宿業だから、「池田先生、先生」と題目あげた。
ほやから、先生と会えた時は感涙抑え難しでの。

昭和53年1月、池田先生が四国研修道場に来られたんや。
先生が車に乗られる寸前にの、くるっと後戻りしてくれた。
小学生の娘の肩に手を置いて、「若い婦人部だね。お母さんを大切にね」。

昭和55年1月にlは「さんふらわあ7」号で神奈川にも行った。
翌年に「紅の歌」が誕生した時も、先生は手を包んでくださった。
貧乏は不幸じゃない。師を持たん人生が不幸や。
私はの、母親としては失格かもしれん。
貧しさから、娘に学問を受けさせてやれんかった。
結婚も3回した。
ほいでも信心だけは頑張った。
人生の指針がある。
昭和37年8月に、池田先生から御書を頂いての。
表紙をめくると筆文字で、私の名前が書いてある。
届けてくれた人から、先生のご伝言を聞いた。
「絹糸は、糸の中でも一番細い。だけども強い」。
私は子供に何も残せん。
でも絹糸のように強く生きる姿を見せよう。
そう決めた。魚売って、折伏して、余事を交えず池田先生のことを考えた。
頭には病気の「病」の字もなかった。
子には「親と思うな。信心の先輩と思え」と育てた。
「冬は必ず春となる」(御書1253ページ)しかなかった。

35年掲げた「魚康」の看板を下ろした日、私は御本尊様と会話した。
「御本尊様、泣き虫の自分が、波瀾万丈の人生を耐え抜きました。
自分で自分を褒めてやりたいです」。泣いた。
もともと病気だらけの人間や。
みかんの缶詰を握らせてくれた池田先生の手のぬくもりが、私に「生きろ」と励ましてくれた。
その恩がある。先生の名誉学術称号の数だけ折伏すると決めた。
今日までに254人に信心を持たせた。
先日、ある病院で診てもろうたら片肺は真っ白。いまだに大腸がんもあるがな。
一日の命がどれほど大事か。たまに会合での、行商で使っとった鐘を鳴らしよん。
盛り上がるでよ。
ひ孫と勤行した時、聞かれたんや。
「おばあちゃんは、いつまで生きる?」
「おばあちゃんは130歳まで生きるよ」。
驚いて笑われた。でもの、私の人生、これからが本番だと決めとん。
あと41年は生きる計算や。」

(聖教新聞 8/2 付け)

(キボウさんの感想)
いつも胸に先生がいて、今尚、精進し続ける姿勢が素敵だと思いました。
「不可能を可能にする 信心させてもろうとん」がんばります!

(ちよの感想)
何度読んでも 涙が出る
船に乗せてくれた同志
はらの座った信心
「宿業も一緒。なんぼ逃げても、ついてくる。
宿命転換する以外に道はない。池田先生に誓うた。」
「貧乏は不幸じゃない。師を持たん人生が不幸や。」
宿命を 愚癡も言わずに受け止める
「今は仮の姿。この姿をじっと見よってよ。必ず信心の凄さを示すから」
254人の折伏
こういう 草創の方が 学会を支えてくださった
折伏したい\(^o^)/

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by tomotiyoo | 2017-08-12 00:00 | Comments(17)

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