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60歳で定年を迎え、私が知らないところで、誕生会を企画してくれ、学会の同志をはじめ、会社関係の人が集まってくれました。
すでに退職をした後輩まで、遠方から駆けつけてくれて、びっくりする出来事でした。
今振り返ると、定年まで勤められたことも、信心の大きな功徳だと思っています。というのも、55歳を過ぎた頃から、仕事にパソコンを使うことが増え、ついていけない私は、倉庫番のような仕事に回され、残業代もカット。年齢とともに、給料が、減らされていたのです。
年齢の割には、力だけは若い者に負けないぐらいありました。
57歳の夏には、大型トラックの運転手になろうと思いましたが、免許を取りに行くお金すらなく、借りられるはずの知り合いとも些細なことで喧嘩になり断念したのです。
今までの自分なら、すべてに嫌気がさしていたでしょう。
同志のみなさんから、「残業が無くなったっていう事は、学会活動が思いっきりできるってことだよ。福運をつけよう。」と激励され、定年になりました。
今まで、自分に足りなかった事は、努力と忍耐だという事を、実感しています。信心して、知らず知らずのうちに、自分を見つめることができ、気もかなり長くなりました。
これもひとえに、折伏の功徳だと思います。
連れて行けば、必ず入決は取れる。あとは、祈って結果を出すだけ。
先生の指導に、「体験に勝る折伏なし」
一晩がかりの対話で、当時の本部長に朝一番で面接をしてもらったこともあります。
朝から晩まで、頭の中は折伏の事。
飲みに行っても、次は誰に話そうかと、友人作り。
こんなに楽しいことは、人生で味わったことが、ありませんでした。

つづく

※誕生日会を開いたのは、選挙が近かったこともあり、定年後も交流を図っていきたいという、私の思いがありました。
私の、元旦那さんと、友人で、その店に誘い出し、着いたら皆が集まっていたということで、かなりびっくりしたようです。
当時は、だまされたと、かなり怒っていました。(素直じゃないね)
集まっていただいた方とは、今でも、交流しています。
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by tomotiyoo | 2013-11-07 00:00 | Comments(2)

入会後の、養父の体験

私の中の学会員のイメージは、坊さんくさい一般人で、戒律やら、教義やらで、品行方正な方たちだと思っていました。
夜中に、スナックで働くなんて、もってのほか、こんなことを許す旦那さんて
頭つるつるのはげ親父で、年が離れているから好き勝手なことをさせている。
ちよは、おめかけさんのような存在なのだと勝手に想像していました。
会ってびっくり、ごく普通の壮年でした。
出勤前の朝7時に、ちよの家に行き、五座の勤行をし、足がしびれて大変でしたが、今ではいい思い出です。
危篤だった母は、2年も寿命を延ばすことができ、私が創価学会に入会したことを、とても喜んでくれ、85歳で、安らかに息を引き取りました。
あれだけ仲の悪かった弟とも、弟の病気をきっかけに、少しづつわだかまりがとけ、私の紹介で 6人目の入会となりました。
余談ではありますが、私が信心し始めた頃まで、我が家には、貧乏神が住み着いておりました。本当に見えていたんです。
鴨居に止まって、私を見下ろしているんです。ある日「お前 神様だろ
金もってこい」と言うと、それ以来出てこなくなりました。しかしまだ、貧乏は変わりません。
地区・支部の皆さんには、おんぶに抱っこに肩車。特にちよ夫婦には大変お世話になりました。(離婚前です)
信心して、1番感じるのは、同志の暖かさです。
私自身、友人は少ないほうではありませんでしたが、人生を語り合い、心から信頼できる友は、いなかったように思います。
地区の人たちは、私の悩みを、我がことの様に、真剣に取り組んでくれました。
いつか恩返しをしたいと話しましたら、最高の恩返しは、自分が成長して、今度は、人の面倒を見ていくことだといわれ、学会のスケールの大きさを感じ、私もそうなりたいと、固く心に決めました。
とにかく、片っ端からちよの家に友人、知人、会社の後輩を連れて行き、仏法対話。
入会した年の暮れには、会社の後輩2人の入決を取り、その後、古くからの友人Jさんにご本尊送りをすることができました。
Jさんは、私が電機屋の頃、商品ををたくさん買ってくれ、お客さんをいっぱい紹介してくれました。
Jさんは、元流し。
地区総会には、ギター演奏と歌で、私は、三味線で、会合を大いに盛り上げることができました。
今は、その方もお亡くなりになりましたが、信心を教え、最期まで面倒を見させていただいた事で、最高の恩返しができたと思います。

つづく

※途中、変な表現がありましたが、ありのまま書かせていただきました。
ちなみに、養父はこの頃から、あたまのてっぺん薄くなっていました。(笑)
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by tomotiyoo | 2013-11-06 12:00 | Comments(2)

私は、昭和16年電機店を営んでいた家の長男として、東京・下町で生まれ、子供のころは、気が短く、すぐ怒るので、パンクと言うあだ名がついていました。
大学を卒業させたいという親心から、私立中学に入学しました。が、親の思いとは裏腹に、札付きの不良と世間から後ろ指を指されるようになり、あまりのひどさに、少しでもよくなればと、父の友人である牧師の元に預けられ、洗礼を受けました。
通学している学校は、真言宗豊山派、通う場所はキリスト教会、今思えば宗教との関わりは,このころからあったのです。
中学の頃から電機店を手伝いながら、学校に通ってましたが、親の期待をことごとく裏切り、20歳で大学を中退する羽目になりました。
若い頃は親のすねをかじり、外車を乗り回し、社交ダンスに夢中になっていました。
25歳の時、ダンスで知り合った女性と結婚。3人の子供に、恵まれました。
しかし、結婚当時うまく行っていた家業も、だんだんと景気が悪くなり、経費を使いすぎていた私は、素行が悪いこともあって、親子共々勘当されてしまいました。
その後は、人材派遣会社で働き、それなりの収入もあったのですが、上司の言葉に短気をおこし退社。
47歳で、イベント会社に転職し、20代の社員と一緒になって、働きました。
生活は相変わらずで、借金の返済で生活費が足りず、返しては借りるという状態で、借金は膨らむばかりでした。
その後、父がなくなり、今まで何も言わず耐えてきた妻からも、愛想をつかされ、別れるからねーって、又、子供たちにも見放され、私が家を出て行く羽目になりました。
出て行くといっても、家を借りるお金もなく、会社の倉庫で何ヶ月か、寝泊りする有様です。
その後、倉庫の近くのアパートを借り、気ままな1人暮らしになったものの、家に帰ると保温していたはずの、炊飯器の電気が消えている。あれっと思って電気のスイッチを入れたら、これがつかない。
電気代が払えず、止められていたのです。
電話、ガスが止まるのは、日常茶飯事。水道が、止められた時は、さすがにちょっとやばい と思いました。
悪いことは続くもので、当時83歳になる母が、がんで危篤状態になり、最悪の状態でした。
母の面倒は、弟が見ていましたが、折り合いが合わず、弟がいない時間を見計らって、見舞っていました。
入院費の援助もしてやれず、情けない自分でした。
私は、何も悪いことをした覚えがないのに、どうして自分だけが、こんな目にあうのかと思いながらも、寂しさを紛らわすため、向かう先は、行きつけの飲み屋でした。
いっときは、忘れることができるのですが、朝になって目が覚めれば、現実は変わるはずもなく、むなしい日々が続いていました。
一日も早く、こんな生活から抜け出したいと思っていた時に、行きつけのスナックで出会ったのが、ちょっと
変わった学会員。 今のうちの娘です。

つづく

※知り合った当時のちよの記事は11/4をお読みください。
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by tomotiyoo | 2013-11-05 23:14 | Comments(2)

男子部の日

男子部の日 おめでとうございます。
おととい、もと男子部のMちゃんから、電話があった。
「おー 飲みに行かない?」
「いいけど、まだ勤行してないんだ。うち来る?」
「俺はした。どこがいいかな?」
「今うちのおじさん(養父)買い物行ってるから、○○でまってて」
「了解」
店で
「あれ?おじさんは?」
「えー いつも飲み屋には来ないじゃない」
「呼べよ」
「うん わかった」
「おじちゃん Mちゃんが、来ればーって言ってるよ。おじちゃんの好きな、お肉もあるし」
「今行く」
父が来る
「なんだよ。2人で来るかと思ってたのに。何してたの」
「半額部行ってた(スーパーは、夜になると、ものによって半額になる)」
「そういえばさ。先生からいただいた、お数珠とふくさ 元旦那から、まだ預かったままなんだよね。」
「俺、もらってないぞ」
「何言ってるのよ。Mちゃんは、先生から、心をもらってるじゃない」
「おー それだけは誰にも負けない」

先生の事、大好きなMちゃん。
先生が言う1番になりなさいって、それだけは誰にも負けないってことなんだなーとつくづく思ったちよでした
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by tomotiyoo | 2013-11-05 08:25 | Comments(0)

お知らせ

大変申し訳ないのですが、コメントは、承認制とさせて頂きました。
コメントのお返事につきましては、少しお時間をいただきますが、ご了承ください。
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by tomotiyoo | 2013-11-04 20:54 | Comments(0)

ユネスコ憲章記念日

今日はユネスコ憲章記念日だそうです
1946年(昭和21)11月4日
ユネスコは「国連教育科学文化機関」といいます。
国際連合(United Nations)教育(Educational,)
科学(Scientiffic and) 文化(Cultural)機関(Organaization)。

大白9月号37ページ 池田先生の講義には
「「世界人権宣言」20周年を記念して、ユネスコが編纂した「語録 人間の権利」には
 「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも
心をば随えられたてまつるべからず」(287ページ)「選時抄」の一節が収められています。
(中略)「内面の自由」「信教の自由」こそ、永遠に崩してはならない人権の根幹です。」
とありました。

ユネスコというと、世界遺産に登録されたとかされないとか、
私などはそんなことばかりに、気をとられてしまうのですが、
もっと深い意味があったのですね。

大聖人の御書は、拝読すればするほど、
偉大な仏法に、帰依できたことの幸せを実感する毎日です。
さあ 今日も御書を読んで、大聖人のお心にふれよう。


※世界人権宣言
「自由権」として、身体の自由、拷問・奴隷の禁止、思想や表現の自由、参政権など、
「社会権」として、教育を受ける権利や労働者が団結する権利、人間らしい生活をする権利など
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by tomotiyoo | 2013-11-04 12:57 | Comments(0)

養父との出会い

当時私は、聖教新聞の配達員、正社員として、経理の仕事 週3回のスナックでのバイトと、かなりハードなスケジュールをこなしていた。
そのスナックの、常連の1人が、現在の養父である。
それが最初であったかどうかは、覚えていないのだが、その日は、3人のお客さんしかいなかった。
順番で、歌を歌おうとの提案に、私は、山本リンダの狙い撃ちを、踊りつきで歌った。
2人のお客さんが、私にチップをくれた。
くれなかったのが、今の養父である。
その人は20日になると、必ずやって来て、会社の後輩とも、たまに店に来ていた。
そのうち、みんなと仲良くなり、店を終えてから、飲みに行くようにもなった。
あまり会合に出ていなかった私だが、新聞啓蒙はしようと思っていた。
「聖教新聞とってくれない?」「いいよ」こんな簡単な会話だったと記憶している。
その後、色々な事を、相談に乗るようになり、
「あなた、このままでいいの?変わらなくていいの?」
「変われるものなら変わりたいよ」
「じゃあ 学会入って変われば」
そして創価学会に入会。平成10年2月の事だった。
彼は、入会勤行会の,南無妙法蓮華経の響きが一つとなって、音楽でもない、コーラスでもない、今までに味わったことのない感動を覚えたという。
私の元の旦那さんと共に、勤行を教え(当時は5座3座)折伏をするようになるまでに、成長していった。

※私が養女になったときの記事は、11月1日をお読みください。
養父の事は、また後日綴っていきたいと思います。
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by tomotiyoo | 2013-11-04 00:51 | Comments(2)

今日、11月2日で、結成37年になるのですね。
こんな話を聞いたことがります。
活動をはじめたばかりの男子部が先輩に、
「君は、青と赤どっちが好きかい?」とたずねられ、
「青が好きです。」と答えたら、
「じゃあ 創価班だね。」と。
そして彼は、創価班で訓練を受け、社会で、なくてはならない人に成長していった。と。

男子部は、時間が遅い会合が多いという。
できれば、朝に勝つという、訓練を、もっとしていただけたらな。 
おばちゃんが余計な事を言ってしまいました。

早寝早起き
良い睡眠をとることも、戦いだよ。
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by tomotiyoo | 2013-11-02 12:54 | Comments(25)

ハロウィンに思う

10月31日はハロウィンだった。
万聖節の 前夜祭。
秋の収穫を祝い、悪霊を追い出す祭りだという。

1992年アメリカに留学していた日本人の高校生、
服部剛丈(はっとり よしひろさん、当時16歳)が、寄宿先の友人とともにパーティに出かけたが、訪問しようとした家と間違えて別の家を訪問してしまった。
家主さんから、侵入者と判断されて銃を突きつけられ、「フリーズ(Freeze「動くな」」と警告されたが、服部さんは「パーティに来たんです」と説明しながら微笑んで進んだため、玄関先で発砲され、出血多量により死亡した。
もし、銃がなかったとしたら、このような悲劇は起こらなかったのではないだろうか。

日本でも、人間不信の闇から、いろいろな事件が起こる。
せめて、私の周りだけは、そんな悲劇は起こしたくない。
そんな思いの人を、増やしていくことで、悲劇は減っていくのかもしれない。
優しさであふれる日本にしていきたいと思うのは、多くの人が、考えている事だと思う。
そして、全世界を、平和にしていきたい。

お祭り騒ぎで、忘れ去られることのないようにとの思いで。
合掌
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by tomotiyoo | 2013-11-02 08:38 | Comments(36)

養父のALSと言う難病

父は、現在72歳。
5年ほど前、ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断された。
最初は、物を落とすことが多くなり、疲れやすい。
友人の間で、虚弱体質だから、とからかわれていた。
養父は、自分の亡き父親と同じ、脳梗塞ではないかと疑った
町医者では、異常なし。
2件目の、病院で、都立病院を紹介された。
検査のため、10日程度の、入院が必要との事。
当時父は、デイサービスの、運転手をしていた。
仕事を、休めないと思った父は、1年ほど延ばした。
病院では、МRI、脊髄液を採取、筋電図などの検査を行った。
ALSと言う病気は、極めて進行が速く、半数ほどが発症後3年から5年で肺の筋肉までも衰え死に至るという。
ホーキング博士・クイズダービーで有名になった篠沢教授・
TОTОの元メンバー ベーシスト マイク・ポーカロ一もALSと言われている。
人工呼吸器の装着による延命は可能だと言うが、父はそこまでしてまで、生きてはいたくないと言う。
多くの患者の場合、認知機能は正常に残存し、意思の疎通ができないという、大きなストレスに、父は耐えられないというのだ。
今のところ、原因も治療法もないと言う。
それなら、この信心で乗り越えればいい。
2人で、そう誓った。
父には、実子が3人いる。
3人とも、未入会である。
この子達には、迷惑はかけられない。私が、娘になろう。
難病に認定され、身体障害者手帳を持ち、都営住宅が当たった。
私は夫と離婚後、養女になった。
都営住宅は、私が60歳になる前に、父が死ぬと、東京都の決まりで、私は、ここを出ていかなくてはならず、とても不安になった。
この先、どうなってしまうのだろう。
養父の死を、私はまともに、見送れるのだろうか。
お先真っ暗と言う心境だった。
それでも父は、元気だった。
不安になると、勤行の際、私が、大悪をこればと言い、父が大善きたると、答えてくれる。
そんな事を、何回繰り返しただろうか。

今、父は、週に2回デイサービスに通い、軽い運動を続けている。
車椅子も、杖も、飾り物になっている。
病気が治ったわけではない。
しかし、治すと決め、真剣に祈り、活動をしていく中で、かなり、症状はよくなっている。
同じ病を持つ人や、家族のため、何らかの力になれればいいと思っている。
父は言う。
「私は、選ばれて、この病気になったのだ」と。
「宇宙から見れば、こんな病気、ちっぽけなもんだよ」 とも。
死ということが怖くて、入会した養父。
いつから、こんなに強くなったのだろうか。
治る 治らないという事よりも、今、命、輝いていることに感謝しつつ。
合掌。

※ 父とのエピソードは、また、語っていきますね。
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by tomotiyoo | 2013-11-01 12:52 | Comments(12)