12/22 「統監部の日」

1952年12月22日
飛躍的な会員の増加に対応するため、戸田先生の構想のもと、新体制の強化が図られ、統監部が設置されました。

人間革命 第6巻 離陸には、
「翌22日には、全国構想に備えて、新たに地方統監部が設置された。
初代地方統監部長には、原山幸一が任命された。
それにともない、原山がこれまで勤めてきた文京支部長の後任に、田岡治子が就任した。
清原かつについで、女性二番目の支部長である。
飛躍的な会員の増加に対応した組織、体制の強化は、こうして堅実に図られていった。そして、12月24日、この年最後の本部幹部会が開かれた。」
と書かれています。
そういえばうちの母が、B長だったこともあったなあ。

この年は、笠原事件の決着をみた年で、神本仏迹論をめぐる事件で、池田先生と寺側との会話が書かれているので、ここもぜひ読んでいない人は、読んでいただきたいと思います。(P278)

統監と言えば、M子の本尊お取替えの時も、統監があるかないかで、すったもんだしました。
私は、個人的に、統監というものは、学会の戸籍や、住民票のようなものと思っています。
統監に名前があるということは、学会家族の証であって、今は、お休みをしていようと、必ずその人でなければならない使命があるわけで、全幹部が、その一人にために全力で、激励していく必要があると思っています。
先日、M子のしらゆり長さんから、お電話をいただきまして、M子の本尊取替えがあったからこそ、今彼女は地区の中で、とってもいい存在になっているとお褒めの言葉をいただきました。
今年最後の座談会では、しらゆり長さんと、M子、感極まって、号泣したと言う話がありました。
その地区でも、まだ、日顕本尊を持っている人がいるようで、なかなか家に上げてもらえず、個人指導ができないと、言っていました。
どんどんM子と一緒に、家庭訪問に行ってくださいと、お願いしました。
M子の成長ぶりは、私にとっても予想外でした。
酔っては、うちに電話をしてきて、学会の悪口を言っていたんです。
短気な私は、会えば、いつも喧嘩。
そんな事が、何年続いたでしょう。
伝統の2月、若い人を折伏をしたいと思って、一番に、思いついたのが、M子の息子さんでした。
それが、本尊お取替えの、最初のきっかけです。
まずは新聞を贈呈し、読まないといっていたので、マンガだけでも読んで頂戴とお願いし、それが、自分で購読するようになって、新聞の感想を携帯で話してくるようになりました。
その年の10月、お取替えをして、今年の10月で1年経ちました。
選挙は、人には頼まない、会合も、家の事がおろそかになるようなら出ない。そんな事を言ってました。
今では、まるで別人です。
「昔の私は、嫌なことからずっと逃げてきた。
今は、なんでも挑戦しようと思っている」と。
茨城の、同志に感謝しつつ、もうそろそろ、M子の広宣流布は、M子に任せようと思っています。
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# by tomotiyoo | 2013-12-22 00:00 | Comments(31)

ちよはいじめっ子?

大人になって、親戚の集まりや、同窓会では、必ず、ちよにいじめられたーって話になって、ずいぶん謝って回りました。
かと思うと、玉子をもらったという同級生が、結構いるんです。
うちの隣の、駄菓子屋さん。もんじゃもやってました。
今では、全国的にも知られているもんじゃですが、私たちの子供のころは、下町の、土曜日のお昼ご飯という感じでした。
土曜日は、給食がないので、確か10円だっかかなー?
中身は、キャベツと、揚げ玉と、さくらえび。そんなもんでしたよ。
別売りで、玉子と、魚肉ソーセージというんでしょうか?
ハガシで、切って入れてました。
玉子は、持ち込み自由。
でも、家から持ってくるには、割れてしまう可能性がありますよね。
そんなわけで、いつも、友達に、玉子を分けてあげました。
貧しかったわりには、大雑把でした。

近所には、変な大人もいました。
一人はたこ親父と呼ばれてて、神出鬼没、どこの誰だか未だに分からないのですが、何と、私の唇奪われてしまいました。
いつどこでだかはよく分からないのですが、おぞましい思い出です。
今は、笑っていえますよ。( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
まあ、いろいろなことがありました。
お風呂屋の帰り道に、タオルごとひったくられたり、洗濯物を盗まれたり。
それでも、まだまだ平和でしたね。

優しい父と、うって変わって厳しい母。
手をつないで歩いた記憶がありません。
冬は、黒いコートをただひたすら追いかけ、気がつくと男の人と入れ替わっていて、男の人が何かを感じて振り返った時の、恐怖感は、今でも覚えています。
あとから母が気がついて、探してくれたからいいようなものの、迷子の恐怖と言うものは、子供にとって、とてつもなく恐ろしい記憶です。
終点の駅だと、うっかり寝てしまおうものなら、容赦なく置いて行かれます。
気がつくと、母はもう、改札を出るところです。
今そんなことを話題に出すと、母は、覚えていないと言うばかり。
その頃の母の心に、何があったのかは、今でも分かりません。
当時、トロリーバスというのが走っていて、それに乗って、母の部員さんの家に、個人指導について行きました。
どうやら、学会活動の時は、置いて行かれないですんでいたようです。
子供連れだと、相手さんが気の毒になって、家に入れてくれるという事もあったようです。
大人には、かわいがられていたようで、班長さんという人のひざに乗って、頬ずりをされた記憶があります。(ひげが痛いのよ)
小さいころは、よくおねしょをする子で、母に裸にされて、ガタガタ震えてたと、姉は言います。
姉自体も、母の事は怖かったようで、父が本当の父で、母が、継母ではないかと思っていたそうです。
顔にお線香、鴨居には鯨尺(竹のものさし)
母の、姉からの、秘伝のようです(笑)

怖い母でしたが、優しい時もありました。
それは、お題目をあげている時です。
あまり甘えない私も、その時だけは、ひざの上に乗ってもいいと、思っていました。
ある日、上級生から、いじめられて、お金を持ってくるように言われました。
その時も不思議と、素直に、母に言えたんです。
確か、50円とか100円とかそんなもんだったと思うけど、母は、お金をくれて、行ってらっしゃいと言いました。
指定された場所へ行くと、誰もおらず、その日から、いじめられることは、無かったです。
大人になって聞きましたが、私をいじめた人たち、同級生からいじめられていたそうです。
いじめって、連鎖するんですよね。
そういう私も、いじめっこでした。
たとえば、虫の嫌いな女の子の筆箱に、羽をむしった蜂をたくさん入れて喜んだり、男の子の背中に、消しゴムちぎって入れたり、真空とび膝蹴りしたり、そんな事だったと思います。
そんな事?うん。そんな事。
加害者と、被害者の、温度差が、いじめのなくならない原因だと今は、思います。
加害者が、何故やめないのか?その心を知るしか、ないのではと。
池田先生がいじめはいじめる方が、100%悪いって言ってましたよね。
私は、そう言われるまで、正直いじめられる側にも、原因があるんじゃない?なんて思っていました。
今でも、知らず知らずに、傷つけていることもあるかも知れません。
いじめた方が、いじめたという自覚を持たない限り、いじめはなくならないのかもしれないと思います。
今は、いじめをみたら、ほっとかない。
人を、包みゆける人になりたいと思います。

とりあえず、おしまい
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# by tomotiyoo | 2013-12-21 12:50 | Comments(7)

♪ピチピチちゃぷちゃぷらんらんらん♪

母は、体が丈夫になり、パートで、飲食店へ働きに行っていました。
家はかなり古く、玄関がきちんと閉まらない家で、私が結婚して、家を建て同居するまで、鍵を閉めた事のない家だったと記憶しています。
雨が降れば、雨漏りもする、そんなあばら家でしたが、よく友達は、遊びに来ていました。
親が留守というのは、子供にとっては、自由に伸び伸びとして、居心地のいいところだったのでしょう。
ある日、裸電球に、靴下をかぶせたら、明かりが、ピンクになって、とってもきれいでした。
その日に限って、ニッカポッカをはいた父が早く帰ってきました。
めったに怒らない父ですが、帰って来るなり
「お前達何やってるんだ!」
遊びで夢中になっていた私達は、気がつかなかったのですが、危うく火事になりそうだったのです。
私達って、馬鹿ですよね。誰も気がつかなかったんです。
電球は熱くなっていて、触れない状態でした。
今でも、どうしたのかは、覚えていないのですが、父がどうにかしてくれたのでしょうね。
今考えれば、守られたの一言ですが・・・
そう言えば、体育の時間、鉄棒から落ちて、背中を打った時も、声が出なくなってまずは病院にいったんでしょうが、家に運ばれた時は、いつもパートでいないはずの母が、いました。
姉からくすめた、お金で、隣の駄菓子屋さんで花火を買い、近所の子を集めて遊んでいたら、花火が私の浴衣の袖に入り、やけどをしたのですが、我慢をして帰ってきたら、両親ともいませんでした。
2階に住んでいるおばが、ジャガイモをすって、私の腕にぬってくれました。
もう、痛いのなんのって、ハンパではなかったです。
でも、私は痛さよりも、母に、怒られるという感覚の方が、恐ろしかったです。
どうにか怒られずにすみ、次の日に病院へ行くのですが、医者から、
「木綿の浴衣を着ててよかったですね。
もし、ポリエステルだったら、くっついてしまい、やけどのあとも残ってしまったでしょうね」と
あー やっぱり私ついてる。
うん。ずーっと守られていたんです。

私の、家での手伝いは、帰ってきた父の、弁当箱をお勝手に持っていくことです。
風呂敷に、包まれた弁当箱は、アルミ製で、新聞紙に包まれていました。
父の日課は、勤行をし、銭湯から帰ってくると、刺身と、奴で、ビールを飲む。
ほとんど、毎日だったと思います。
嫌いな父でしたが、腹巻にお金を入れていて、そのお金をくすめるため、たまにあぐらをかいた、ひざの上に座りました。
そして、アワアワと言って、ビールの泡を飲んでいました。
お子さんのいる人。子供にお酒を飲ませるのは危険です。
私のような大人になってしまいますよ。
そして、腹巻の中に手を入れて、頂戴といって、おこづかいにしていました。
左官や殺すにゃ刃物は要らぬ、雨の3日も降ればいい。
なんて昔の人は、言ったようですが、雨が降ると、幼稚園のお迎えは、父の役目でした。
私は、それが、嫌で嫌で仕方ありませんでした。
どこへ行っても、「おにいちゃん、おじいちゃんと一緒でいいね」と言われるからです。
私は、髪が短く、いつも男の子と間違えられ、父は、おじいちゃんと間違えられるのです。
大きくなってからは、人の家を創る仕事をしていながら、自分の家一軒も建てられない父に、嫌悪感さえ覚えました。
戸田先生の、青年訓「青年は親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。」この言葉に、ずいぶん悩みもしました。
それでも、生きている間に、父の事を尊敬できる自分になれたことは、信心の功徳そのものです。

つづく
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# by tomotiyoo | 2013-12-21 00:00 | Comments(8)

二件長屋

私が育ったところです。
隣は、駄菓子屋さん。
2階には、父の妹夫婦が住んでいて、そこには子供はいませんでした。
左官屋の父と、ちょっとヒステリックな母の間に生まれたのが、私です。
父が、50歳のときの子供。
父が生きていれば、103歳になります。
父も母も、再婚同士。
父は、元の奥さんを、自殺で亡くしているそうです。
母の、元旦那さんは、盲腸の腹膜炎で、母が、おなかの大きい頃に、亡くなったと聞いています。
というわけで、11歳離れた姉とは、異父姉妹ということになります。
この姉妹、11歳も離れているのに、私が、小学校を卒業するまでは、毎日のように喧嘩しておりました。
それも、時には、取っ組み合いの喧嘩です。
私が生意気で、姉は11歳まで一人っ子で育ったものだから、ぶつかったんでしょうね。
まず、TVの番組争いです。
当時は、ほとんどの家には、TVは一家に1台でしたから、そんな光景はどの家でも、繰り広げられていたことでしょう。
今は、もちろん、とっても仲良しですよ。
今年、姉は新聞配達30周年の、表彰を受けました。
母も、姉もとても体が弱かったようで、そんなことで創価学会に入会したのだと思います。
そして、私が生まれました。昭和35年のことです。
幼少期、医者に、母と私の薬を間違えて配合され、ちょっと多いなと思ったものの、母は、私に薬を飲ませたそうです。
自分の薬を飲もうとして、量の少ないのに気がついた母は、慌てて医者に、連絡したそうです。
お医者さんも、心配して、我が家にやってきて、ずっとつきっきりで、診ていたようです。
母は、この子は使命のある子。絶対に死ぬはずがないと祈ったそうです。
お陰さまで、今まで生き延びております。
父はとっても優しい人でした。
でも、私は、父が大嫌いでした。
子どもって、残酷なもので、ただ歳をとっている それだけで、嫌っていました。
姉と父は、大変仲がよく、2人で甘いもの屋さんなんかに行っていたようです。
ある日、いつものように、私と姉が取っ組み合いの喧嘩。
それを見ていた父が、珍しく、姉を叱りました。
そしたら姉は、大泣きをして、「お父さんは、私が本当の娘じゃないから、私の事を怒るのでしょう」と逆切れ。
私あれっと思ったものの、「それならお父さんが悪い」という事で、父が悪者になって、喧嘩はおさまりました。
この日、私は、姉が、父の子ではないということを知るのでした。

つづく
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# by tomotiyoo | 2013-12-20 00:00 | Comments(10)

新・人間革命13巻 楽土

先日の、会合で、原田会長が沖縄の事が書かれていると紹介してくれたので、もう一度読んでみた。
ここで私は気がついた。
「建設は死闘 破壊は一瞬」と覚えていたが、反対だった。
正確には、P294
「破壊は一瞬 建設は死闘 惰性は暗 希望は明 後退は死 前進は生」と

分かっているつもりでも、何回も勉強しないといけませんね。
私が感じたところを、抜粋します。

P304
「本当に必死であれば、勇気がわく。力がわく。知恵がわく。自分の壁も乗り越えていくことができる。真剣であること。誠実であることこそ、指導者の要件です。」
「“じっとこらえて今に見ろ”との心で、柔和忍辱(にゅうわにんにく)の衣を着て、スクラムを組んで、朗らかに前進していこうではありませんか!」

P333 マーシー地区の話。
「仏法でなければ、真実の平和は築けません。紛争についても、武力によって制圧すれば、解決できると考えるのは誤りです。それでは、むしろ、憎悪を生み、果てしない報復の繰り返しになってしまう。戦争といっても、それを引き起こすのは、結局は人間です。ゆえに、平和の建設は、人間の生命を変革し、憎悪の心を慈悲に、反目を友情に変える以外にない。
その人間革命の道を教えているのが、日蓮大聖人の仏法なんです。」

P349
「人材とは、人格の人であるということです。人への思いやり、包容力、自分を律する精神の力、正義への信念と意思等々、人格の輝きこそ、人間として最も大事です。それには精神闘争が必要です。自分の弱さに挑み、苦労に苦労を重ねて、自己の精神を磨き上げていくことです。
そして、人材には、力がなくてはならない。心根は清く、美しくとも、力がないというのでは、民衆の幸福、平和を築くことはできない。だから何か一つでいい。これだけは誰にも負けないというものをもつことが必要です。」

P364 火事で子ども2人を死なせてしまい、ご本尊様も消失してしまったご夫婦の話
「きっと心のどこかに、信心しているから大丈夫だという思いがあったのだ。
それが油断であり、魔であったのだ」

P306
「病気が治る。事業が成功するといったことも、信心の力であり功徳ですが、まだまだ小さな利益です。本当の大功徳は、どんな大苦悩に直面しても、決して負けない自分自身をつくり、何があっても、揺るがない大境涯を築いていけるということなんです。それが、絶対的な幸福境涯です。」

P371
「あても喜ぶな うしなても泣くな 人のよしあしや 後ど知ゆる」
財産があっても喜ぶな。失っても泣くな。人間の真価は、そんなものでは決まりはしない。人のため、世のために何をしたかどうかで、その人のよしあしは、後になって分かるものだ。

P372
「最後に勝つ人が、人生の勝利者です。」

ここから、原田会長が、話してくれました。
グラスボードという観光船に、私も、一緒に乗っていたんです。
船が故障して、漂流。
みんなが慌てる中、先生は、動じなかった。
結局、船は、名護に向かうのだが、そこには300人の同志と「先生ようこそ」
の横断幕。
先生が一言
「こういうことはやめようね」

そして、本部幹部会で、先生 仰ってたよね。
人間教育の根本も
「生命を大切にすること」
「絶対に人を殺してはならない。絶対に戦争を起こしてはならない。
それ以外のことはでき得る限り、自由に、伸び伸びと、大らかに、未来部を育て応援していけばよいと私は思う」って
何だかとっても嬉しかったよ。
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# by tomotiyoo | 2013-12-19 00:00 | Comments(6)