真実を語る(真実が知りたい) 

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ちよが、本音で語るブログです

2018年 03月 20日 ( 1 )

『「女中に向かいお前の顔に墨がついている」と教えてやれば、喜んで払うに引きかえ、
「このごろ少しお前の心に汚れた所が見えだしたから、直しなさい」と 忠告すれば、たちまちふくれあがるのが人情である。
いわんや肉体の不具者に対比すべき精神的不具者として、周囲から爪弾き(つまはじき)されている(つまはじき)患者悪者においてをや。
身体の欠陥は喜んで矯正せんとはするが、精神上の欠陥は、他人の忠言さえも嫌い、内心は恥じていながら、思いきって認識(反省)(だにせぬ人情なるがゆえに、永久に治療する機会はない。
さりながら「彼がために悪をのぞくはすなわちこれ彼が親なり」の親心ばかりは、他人行儀に捨ておくことはできぬ。
とはいいながら、やはり認識と評価を混淆(こんこう)して、親馬鹿の誹り(そしり)を免れ得ないのを常とする。
したがって治療の方法などは、永久に生まれないのであろう。
これを不具者を対象とする外科医術の発達などに比すれば、雲泥の差といわねばなるまい。
かの整形外科のごときは、浸々(しんしん)として発達し、あきらめきっていたものが、根気さえあれば、容易に治る時代になり、あるいは不足の手足の不自由を、残りの手足をもって埋め合わす等、精神の薄弱または不具者のそれに比すれば、羨ましいと言わねばなるまい。
しからば、精神の不具者の治療は、永久人智のおよばざるところとあきらむべきか。
外に顕れた肉体の不具で、人智のとてもおよばざる所とあきらめたものさえ治る方法のできた世の中に、顕れもせぬ精神の不具が治らぬものと断念することは、あまりに人間が自屈(じくつ)しすぎた臆病である。
なぜなら、身体上の不具といえども、義足のごとき物質の継ぎ合わせではなく、生まれつきの身体の一部であるかぎり生命の一部である。
よって治すという意力と治るという自信力がないならば、どんな名医といえども、治せるものではない。
すなわち治るという結果は、治ろうとする自力と、治そうとする他力との確信をもった協同によるものである。
はたしてしからば、同じ生命の一部である精神の不具が治せぬという断念は、早すぎる。
のみならず、外顕の肉体の欠陥さえも治るものを、内潜の精神欠陥が治らぬはずがないと見なければならぬ。
しからばいかなる手段があるか。
治るという信と、治すという意力とが、自他においてできるのが第一の要件である。
治ったものが皆無ならばともかく、たとえ稀有(けう)の例であっても、治ったという証拠があがった以上、同じ人間であれば、治らぬわけはないと信じ、かつ信ぜしめることができる。
もちろん、治ろうとする意力も、治るという自信も、起こし得ない低能者に対しては機械同様の手段しかないが、さもないかぎりは、手段がないわけはない。
ここまでの決心がなされるならば、困難は困難でも、あとは比較的たやすくなる。

教育治療術の分類
1.一般的低能者=愚癡等
2.特殊的低能者=不良児
3.不具者=盲者、唖者、聾者

(牧口常三郎全集第2巻 P352 教育治療法の問題より抜粋)

時代が時代なので 今読むと 差別と感じるかもしれませんが 牧口先生は 差別をするような方ではないという事を ご了承ください
変わろうと 努力をし続けるのであれば 必ず 変わると私は思うのです
私も かなりの 一般的低能者であり 特殊的低能者でありました
それでも 同志と交わることで かなり 改善していると思います
人と比べるのではなく 具合の悪い時から比べると 雲泥の差です
  
「すなわち治るという結果は、治ろうとする自力と、治そうとする他力との確信をもった協同によるものである」

治らないという医者が多い中で 私は 牧口先生の言葉を信じました
真剣に 治そうと思う方は 一緒に 治してみませんか?

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by tomotiyoo | 2018-03-20 11:00 | Comments(19)

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